“生粋の吉原っ子”蔦屋重三郎ってどんな人?いつの時代も男たちは「女遊びが好き」で「かわゆいオナゴの絵写真を手元に置いておきたい」ものなのか?
吉原は男のロマンだが…女はカネのために搾取されていた
現代社会において、銀座のクラブや新宿歌舞伎町のキャバクラは少なくない男性にとって憧れの場所といえるかもしれません。お店や女の子のSNSなどを見ながら「いつか行ってみたい」と思いをめぐらせている男性もいるはず。一方、江戸時代においては重三郎が制作した大人向け絵本や遊女を花に見立てた本『一目千本』などを眺めながら、夢をふくらませていた男たちは少なくなかったのではないでしょうか。 宝暦以前、吉原では遊女たちを揚屋に呼び出し、遊ぶのが一般的でした。客は呼び出し料、揚屋の部屋代、飲食代だけでなく、太夫が従えている者たちに支払うお金も必要でした。大名たちは妓楼に直接上がらなくても揚屋で遊べたため、その気楽さも好んでいたそうです。 元禄バブルがはじけると、大名も散財し、豪遊できなくなります。こうした中で、揚屋のシステムから客が妓楼で直接遊ぶシステムに変わっていきます。現代でいうところの店舗型の風俗店です。この頃になると、妓楼の客には武士や商人などさまざまな男たちがいました。 吉原で男たちの欲望や夢に応えていた遊女ですが、彼女たちには美貌だけでなく、和歌や漢詩、三味線、書道、華道、歌かるたなどさまざまな教養が求められていました。遊女は客の相手をするだけでなく、稽古に励み、自分を磨いていたのです。遊女を現代の職業にたとえるのは難しいですが、会いに行けるアイドルと高級クラブのホステスを足して二で割った存在といわれることもあります。 当時流行の着物を身にまとった煌びやかな遊女たちですが、多くは望んで遊女になったわけではありません。吉原で働く遊女の多くが借金のカタとして売られた女子たちです。また、吉原周辺といえば大都会ですが、遊女の多くが地方出身者です。遊女たちの言葉はありんす言葉といいますが、訛りを統一することを目的としたものでした。 日々の暮らしは過酷で、睡眠時間は小刻みで短く、集団生活が基本のためプライベートはほとんどありません。性病や堕胎で亡くなる遊女も少なくなかったといわれています。彼女たちは人権を蔑ろにされ、あくまでも“働き手”として扱われていたのです。 本記事では「蔦重を中心とする吉原」ついてお伝えしました。 続く「たい たい たい尽くしの世の中を金なし、親なし、家もなしの蔦重が駆け抜ける!彼の始動のきっかけはひとりの女郎の死だった」では、1話目のストーリーを深堀りします。 参考資料 車浮代『蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人: 歌麿にも写楽にも仕掛人がいた!』PHP研究所 2024年 永井義男『蔦屋重三郎の生涯と吉原遊廓』宝島社 2024年 晋遊舎『100%ムックシリーズ 完全ガイドシリーズ398 蔦屋重三郎完全ガイド』晋遊舎 2024年
アメリカ文学研究/ライター 西田梨紗
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