“生粋の吉原っ子”蔦屋重三郎ってどんな人?いつの時代も男たちは「女遊びが好き」で「かわゆいオナゴの絵写真を手元に置いておきたい」ものなのか?
「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」ファンのみなさんが本作をより深く理解し、楽しめるように、40代50代働く女性の目線で毎話、作品の背景を深掘り解説していきます。今回は江戸時代における「蔦重を中心とする吉原」について見ていきましょう。 【画像】NHK大河『べらぼう』#1
蔦重。生い立ちを活かして“江戸のメディア王”に成り上がった男
“蔦重”こと、蔦屋重三郎 (つたやじゅうざぶろう)は喜多川歌麿(きたがわうたまろ)、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)をはじめとする数々の浮世絵師をプロデュースしたり、江戸吉原の人気ガイドブック『吉原細見』を出版したりと、江戸カルチャーの開花に大きく貢献した男として知る人ぞ知る存在です。 重三郎について馴染みがない人は少なくないかもしれませんが、歌麿や写楽といった絵師は彼の存在なくしては誕生しなかったといっても過言ではありません。また、現代に生きる私たちの多くが本の購入やCDレンタルなどで利用しているTSUTAYAは、蔦屋重三郎にあやかって名づけられたともいわれています。 重三郎は江戸の文化の発信地である吉原遊廓に生まれ育ちました。当時、吉原遊廓はにぎわっており、多くの人たちが憧れを抱くベールに包まれた観光地のような場所だったといわれています。1846年の「町役人書上」によると、この地の人口は男性が1439人、女性は7339人(遊女:4832人)で、人口の半分ほどが遊女でした。 重三郎の両親の職業は定かではないものの、遊女にかかわる仕事をしていたと考えられています。重三郎は7歳頃に喜多川家の養子となり、同家が経営する商家・蔦屋(*1)の養子として育てられました。彼は幼い頃から遊女や遊女にかかわる仕事をしている人たちと接する機会が多く、この地に自然と精通し、暮らしの中で人脈を築きました。重三郎が“江戸のメディア王”と称されるほどに大成功をおさめたのも、ホームグラウンドでビジネスを展開したからだといえるでしょう。 重三郎は20代前半にして五十間道に書店を開き、吉原遊廓のガイドブック『吉原細見』の卸しを行い、出版物の制作も始めます。彼の最初の出版物は遊女を挿し花に見立てた遊女評判記です。遊女を挿し花に見立てるとは、なんとも粋ですよね。その後も、勝川春章(かつかわしゅんしょう)や北尾重政(きたおしげまさ)といった著名な浮世絵師とともに、吉原遊廓を美しく描いた大人向けの絵本などを出版しています。 重三郎の大きな功績の一つとして、かの有名な浮世絵師である歌麿の才能を早くに見抜いたことが挙げられます。彼は歌麿を美人絵の作者として起用。さらに、歌麿に当時ひっそりと人気があった春画も描かせています。歌麿は遊女だけでなく、市井の娘も描いています。いつの時代も、男たちは芸能界で活躍するような女性だけでなく、素朴なかわいらしい一般女性にも心惹かれるものです。あるいは、春画のようなエロティックな絵をときとして求めることも...。 *1 蔦屋の茶屋は吉原を訪れた客に飲食を提供するだけでなく、遊女屋への手引きを行っていたともいわれている。
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