父と息子、丸い土俵と固い絆 母が急逝、19歳の新十両若碇は気合と根性、そして感謝
突然の別れから間もない日のことだった。甲山親方は、ある会合で錣山親方(当時、元関脇寺尾=故人)と同席。この時は時津風一門の大先輩で、日頃から目をかけてくれていた。錣山親方はゆっくりと、穏やかな表情でつぶやいたという。「いやあ、でも、もうね…。前を向いて生きるしかないからね。子どもがいるんだから、前を向いて生きるしかないから」。前を向いて生きる―。「確かにそうだな」。この言葉が目の前を照らしてくれた。 甲山親方は言う。「寺尾関のあの一言で、俺はもうやるしかないと思った」。息子3人は既に相撲を始めており、8月には稽古を再開した。戦後間もない時期から続く伝統の小松竜道場(東京都台東区)に所属。父は週3回の稽古に全て付き合い、まわしを締めて胸を出した。自分と子どもたちとを結ぶ絆は土俵だと信じ「絶対に相撲を続けてほしかった」と一緒に汗を流してきた。 毎日の食事にも全力を注いだ。暇を見つけては料理系ユーチューバーの動画で勉強。晩ご飯はおかず3種類以上を並べ、カレーライスや豚テキ、鳥の唐揚げは好評だった。朝は白米にハムエッグを乗せ、自分は国技館へと出勤した。「ご飯はほぼ自分が作った。絶対に手を抜きたくなかった」。地方場所で不在の期間は直美さんの両親が神戸から、自身の両親が京都から交代で来てくれた。それ以外は一人。運動会は3人分の弁当を作って応援し、授業参観にも可能な限り行った。「子どもたちに寂しい思いをさせたくない」との思い一つだった。
前向きに毎日を生きる親子を周囲も後押しした。錣山親方は3兄弟にお年玉を毎年渡し、同親方の兄の井筒親方(当時、元関脇逆鉾=故人)は夏休みに親子4人を焼き肉やすしへ連れて行ってくれた。ともに10代で母を亡くしており、人ごとではなかったのだろう。 ▽人生を変えた寮生活、感謝の大切さを知る 「母が他界してからは、父が基本的に一人で家事、育児を全部やってくれた。いつか関取になって恩返しをしたかった」。若碇はかみしめるように語る。心の底からそう思えるようになったのは、親元を離れての寮生活だった埼玉栄高の3年間が礎となる。「人生を変えてくれた」と言うほどだ。 若碇は中学卒業まで目立った実績がなく、高校入学時は体重75キロと細かった。全国屈指の強豪校で2年までは補欠。それでも充実した稽古と食事で卒業時には110キロに増え、3年で主将を務めるまでに成長した。 厳しい指導の一方、埼玉栄高の山田道紀監督は部員全員に手作りのご飯を毎食用意した。「親にやってもらうのは当たり前のことじゃないんだぞ」と何度も言い「感謝」の大切さを説いた。