世界のフラッグキャリア「パンアメリカン航空」はなぜ破綻したのか? 20世紀の航空文化を変えた絶大な影響力を振り返る
高コスト体質の代償
国際線ではリーダー的存在であったパンナムだが、「利益率」は国内線で強い ・デルタ航空 ・ユナイテッド航空 ・アメリカン航空 に比べてはるかに低く、上位10位にも入らなかった。国際線は単価が高いものの、景気による変動が大きく、売り上げは安定しなかった。また、B747の大量導入により固定費が高く、人件費も業界最高水準で、高コスト体質の企業だった。 このような高コスト体質のまま、オイルショックによる燃料費の高騰や航空自由化による業績悪化に苦しむことになった。しかし、航空自由化によって以前は進出できなかった高収益の国内線市場に参入できるようになったため、状況を打開する切り札を手に入れたともいえる。 パンナムは1980年に、マイアミを拠点とするナショナル航空を買収し、国内線への本格的な参入を目指した。しかし、ナショナル航空の買収は衰退の始まりとなった。この合併の際、パンナムは拡大を急ぐあまり、ナショナル航空の人件費を自社並みの高さに引き上げてしまった。 また、B707やB747の開発に深く関わったパンナムは、ボーイング社中心の機材構成だったが、ナショナル航空はダグラス製の機材を主に使用していた。そのため、部品やパイロットの共有ができず、整備費がかさんでしまった。 さらに、マイアミを拠点とするナショナル航空では全米各地への路線網拡大が難しく、特に米国中部に拠点を築くことができなかった。その結果、パンナムはナショナル航空の買収によって国内線ネットワークを劇的に拡大することができず、コストが増加して利益を圧迫するだけの結果になってしまった。
運行停止から2度の復活
ナショナル航空の買収とイラン革命による第2次オイルショックが影響した1980年代には、経営危機が顕在化した。経営立て直しのため、パンナムは切り売りを始める。1981年には業績のよかったホテルチェーン・インターコンチネンタルを売却し、1983年には本社のパンナムビルを手放した。 そして1985年には太平洋路線すべてを成田空港の以遠権、ハブ、機材とともにユナイテッド航空に売却した。この太平洋線は全路線網の4分の1を占める高収益路線であり、当時から売却に対する疑問の声があった。しかし、破産の危機が迫っていたため、売却は避けられない状況だった。 その後、ホノルルからの日本路線復活計画もあったが、1988年にリビアの過激派によるパンナム機爆破事件が発生し、この計画は頓挫した。このテロ事件によってブランド価値は失墜し、乗客は激減した。そして1990年には大西洋線もユナイテッド航空やデルタ航空に売却された。湾岸戦争の影響を受けた1991年12月、ついに運行を停止し、「世界のフラッグキャリア」としての地位は歴史の中に消えていった。 しかし、米国の名門のブランド力は高く、消滅後に2度復活している。1996年には、パンナムの商標を買い取った新会社がエアバスA300とボーイング737を使用して、マイアミからカリブ海諸国やロサンゼルスへの路線を運航開始した。 「長距離路線を格安で」 というコンセプトで再起を図っていた。しかし、この「第2期」パンナムは1998年にカーニバルエアラインズに買収され、わずか2年で歴史を閉じた。 その年、鉄道会社ギルフォード・トランスポーテイション社が商標を買い取り、ボストン・メイネアウェイズという企業が免許を持ちながらもブランドとして「パンナム」を用いる形で、「第3期」の運行が開始された。ボーイング727を用いてニューハンプシャー州からボストンやシカゴなどに就航していたが、2008年に運行を停止してしまった。