世界のフラッグキャリア「パンアメリカン航空」はなぜ破綻したのか? 20世紀の航空文化を変えた絶大な影響力を振り返る
日本と関わりが深かったパンナム
パンナムは、第2次大戦後に日本の民間旅客市場の立ち上げに貢献したことで、日本からアジア各地へ向かう路線に無制限の発着枠、いわゆる「以遠権」を与えられていた。この権益を生かし、日本からニューヨークやホノルル、ロサンゼルスといったアメリカの主要都市だけでなく、香港やバンコクなどアジア各地にも多くの路線を展開していた。 1950年代から1960年代にかけて、日本は急激な経済成長を遂げ、パンナムにとっても最重要市場のひとつとなった。その具体的な取り組みは次のように現れている。 ・東京とニューヨークを直行できるジャンボ・B747SPを開発し、1976年に就航した。 ・東京(羽田空港、後に成田空港)にはアジア路線専用のB727が常駐した。 ・当時運行されていた世界一周便も東京に寄港した。 また、日本では独自の広報戦略を採用し、特にコンテンツ戦略に力を入れていた。世界各地の支店から海外事情を伝える「兼高かおる世界の旅」はTBSで長年放映され、「若大将」シリーズや「社長」シリーズなど人気映画でも海外に関する作品に頻繁にパンナムが協賛していた。これらのコンテンツ戦略は、 「海外旅行が身近ではなかった日本人」 に外国への憧れを抱かせるのに大きく貢献した。 特に有名なのが、大相撲の幕内最高優勝力士に贈られる「パンアメリカン航空賞」である。この賞は1953(昭和28)年に登場し、途中から極東地域広報担当支配人のデビッド・ジョーンズ氏自らが贈呈するようになった。和服を着たジョーンズ氏が小柄な体でよろめきながら大きなトロフィーを持ち、片言の日本語で 「ヒョー・ショー・ジョー!」 と叫んで渡す姿は、昭和の大相撲の風物詩として親しまれていた。テレビ中継でも「おなじみの光景」として呼ばれ、ジョーンズ氏の表彰授与は20年以上も続き、パンナムの知名度向上に大きな成果を上げた。 こうしたブランド戦略の結果、多くの日本人が利用するようになり、日本路線は同社にとって屈指のドル箱路線へと成長した。