航空業界・農業にも参入!知られざる静岡の200年企業
歴史を背負う八代目の覚悟~赤字転落で決断
鈴木が清水に生まれたのは1941年。生まれた時から鈴与の跡継ぎを決定づけられていたが、それに抵抗を感じていたという。 「いろいろな人が自宅へ来るんです。お酒を飲んでよく説教されました。『お前は八代目なんだから』と。小学生の子どもに酔っ払って説教されてもかなわないですが」(鈴木) 東京大学を卒業後、明治時代から鈴与と取引のある「日本郵船」に出向。跡継ぎの重圧から逃れるように海外駐在員を希望し、ヨーロッパでの生活を始めた。 「楽しかったですね。車でヨーロッパ中行けるので、休日にはよくベルギーやドイツを旅行しました」(鈴木) そんなある日、パリのオフィスにいた鈴木のもとに「大至急、帰国せよ」のテレックスが届いた。送り主は父・7代目与平だった。1974年に帰国すると、鈴与はオイルショックを発端に、創業以来、初めての赤字に陥っていた。 「しっちゃかめっちゃかで、赤字の会社が10以上ありました。月に1億円以上の赤字が出る会社もありました」(鈴木) このピンチに覚悟を決める。 「最後に父が『もう(後を継ぐか)ここで決めてくれないと、後継者はまた別に探さなきゃならない』と。たぶん息子でなくては、これだけの大変な時期をクリアできないだろうとは思いました。私しかいませんから」 帰国から3年後の1977年、36歳の若さで社長に就任。一大決意で取り組んだのが、主力事業の分社化だった。 当時、稼ぎ頭だったのは、エネルギーなどを扱う販売部門。その売り上げは全体の80%に及んでいた。その裏で、物流部門は伸び悩んでいた。 当時、物流部門にいたOBの立石義郎さんは「一気に日本の経済が落ち込んで、港に船も入らなくなって、輸出も落ちて、仕事にあぶれちゃいました。うちは大企業だというふんぞり返った部分はあったのかなと思います」と、振り返る。 販売部門の売り上げに甘え、分社化に反対する声もあったが、鈴木は10年もの歳月をかけ、1990年に販売部門を「鈴与商事」として分社化する。稼ぎ頭を失った本社の物流部門も、そこから奮起して改革を断行。サプリメントの瓶詰めのような物流の枠を超えたサービスを次々と生み出し、売り上げを伸ばしていった。