子どもの喧嘩で母親が相手の父親の腕に噛みつき殺傷沙汰…「江戸時代の人たちはキレやすかった?」
口論の末に殺人
延享三(1746)年一〇月二九日の夜、東中町の伝次郎が、いかなる理由があったのかは不明だが、今籠町の貞次郎と口論になった。翌日夜、伝次郎は平助、幸八、平三郎、さらには忠次平、虎松、および平五郎を引き連れて貞次郎の所に行き彼を打擲した。この結果、貞次郎は死んでしまった。 伝次郎らは捕らえられて吟味され、まず伝次郎が紛れもない事実であると自白した。江戸への伺いの結果、翌四年五月一九日、伝次郎は家財を取り上げの上、下手人(死刑)を命じられた。通常、下手人の場合、田畑の闕所(取り上げ)を伴うが、伝次郎が田畑を所持していなかったのでその代わりとして家財取り上げになったのかもしれない(「長崎町乙名手控」)。 江戸の判断は、加勢した仲間についても同様であった。しかし、忠次平、虎松、平五郎の三人は、行動はともにしたものの貞次郎には手を出さなかったことが明らかになった。このことが斟酌され、罪一等を減じられ、所払に止まった。なお、一味の一人、虎松はこの下知が長崎に届く前に病死していて受刑できなかった。 では他の三人はというと、伝次郎同様、貞次郎を殴ったことは事実と認められたが、長崎奉行所は江戸に宥免を願い出た。これにより彼らの処分は家財取り上げの上での追放に止まった。 この事例で興味深いのは、それぞれの刑の執行日が同一であったのか、そうでなかったのかはわからないが、忠次平と平三郎が北の時津境から、平五郎、幸八は東の日見峠から、そして平助は南東の茂木境からと、長崎の異なる「口」から町使によって送り出されたことである。 仲間同士がその後、結果的に落ち合うのは致し方がないとしても、それぞれを別の街道から追放しているのである。こうした工夫も支配する側はしていたのだ(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(二)五七~五八頁)。
松尾 晋一(長崎県立大学教授)