子どもの喧嘩で母親が相手の父親の腕に噛みつき殺傷沙汰…「江戸時代の人たちはキレやすかった?」
「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉がある。江戸の二大名物のひとつが喧嘩。江戸っ子は気が早く喧嘩が多かったというのである。 【画像】「法を守る気ゼロ」…幕府もお手上げの「江戸時代の長崎の特殊な法意識」 では長崎ではどうだったのだろうか。江戸時代の裁きの記録として現存する、長崎奉行所の「犯科帳」には、当時の長崎の人々がキレたさまざまな事案が記録されている。 【本記事は、松尾晋一『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』より抜粋・編集したものです。】
子どもの喧嘩が親同士の殺傷沙汰に
元禄五(1692)年、子どもの喧嘩が刃傷沙汰にまで発展する事件が発生した。 北馬町の久三郎(一七歳)の弟と五兵衛の娘が喧嘩した。これを受け、五兵衛の女房が久三郎方に行って悪口を言い、のみならず久三郎に噛みついた。怒った久三郎は五兵衛の女房を包丁で突き殺した。久三郎は牢屋にて刎首となった(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)七三頁)。 つぎの事例もある。寛延二(1749)年五月二二日の夜、恵美酒町(恵美須町)の住人・勘左衛門と遊女町・寄合町の石見屋亀之助方の下女「せき」が口論となった。発端はわからないが、勘左衛門が「せき」を殴って傷を負わせた。この件で「せき」は当日に町預となり、勘左衛門は翌日、入牢となっている。 奉行所は、傷が治った「せき」を呼び出して吟味した。七月一三日に刑を言い渡されているのを踏まえると、全治二ヵ月程度の怪我をしていたことになる。 刑を執行するにあたって明らかになったのは、最初に手を出したのは「せき」であったことである。煙管(キセル)で勘左衛門を叩いたことから今回の件ははじまったのだった。怒った勘左衛門は「せき」を殴った後、彼女の主人・亀之助の家に踏み込み、亀之助の母親も殴って暴れた。勘左衛門は「せき」に殴られて頭に血が上り善悪の見境がなくなっていたのだろう。 「せき」は、先に勘左衛門に手を出したのはお咎めの対象だとされたが、傷を負った点を斟酌されて許された。他方、勘左衛門は、「せき」との一件には情状酌量の余地があるものの、それ以外では一方的な加害者であると長崎奉行は判断した。かくして勘左衛門は所払を命じられた(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(二)八六頁)。