名門ビジャレアル、歴史の勉強から始まった「指導改革」。育成型クラブがぶち壊した“古くからの指導”
「これとは異なるロッカールームを僕は作りたいと思ってる」
現代で私たちに求められるのは、多様性、柔軟性、適応性、異なるものを受け入れる包容力だ。なおかつ、より良い人生、より良い社会のため、そして人々が自由を得るために必要となるのは、自ら考え自己決定する力のはずだ。 「それなのに、僕たちは何も疑うこともなく戦時中や戦後の学びの環境をそのまま無意識に継承していたんじゃないかな? 時代の変化とともに、求められる人材は変わる。であれば、育て方や指導の仕方も変わって当然だよね」 セルヒオたちスタッフの言葉にうなずくしかなかった。自らの生い立ち、育った環境や文化、そして母国の歴史をたどりながら、新しい指導のビジョンの糸口を探る作業を行ったのだ。 加えて、有名監督たちの試合前やハーフタイムのロッカールーム映像をつぶさに分析するグループワークも課された。 「彼らが選手になんて言ってるかな? よく聴いて。どう?」 そう言われても、指揮官たちは「ぶっつぶせ」とか「死ぬ気で勝つぞ」と勇ましいエールを送るのみだ。 「そうでしょ? 監督が選手に与える言葉の影響力なんてそんなに大きくないんだ。これとは異なるロッカールームを僕は作りたいと思ってる」 セルヒオの意図することをすぐにくみ取れたわけではないが、私は未知のもの、新しい学びにワクワクした。
「責任と主体性」を求めるセルヒオ・ナバーロのメソッド
私たちは、セルヒオやサイコロジストたちから終始質問攻めに遭った。 「君はなぜそれを言ったのか?」「なぜ言わなかったのか?」「なぜそうしたのか?」「なぜしなかったのか?」 すべての行動に一人ひとりが自覚的になるようにと言われた。提案はすべて抽象的で、自分たちの何が悪くて、良いのかさっぱりわからない。答えを求めると 「僕は答えを持ってないよ。君たちがそれを見つけるんでしょ」と突き放された。 「ああしろ、こうしろって教えてよ!」 指導者たちは皆、そう叫びたかったはずだ。その葛藤のなかで、いま一度自分たちの指導を振り返ろうというアイデアだった。 男女の幼児からトップまで総勢120人のコーチたち、一人ひとりのコーチングをつぶさに撮影した。選手たちへの声掛けから、何に注目しどこに意識をフォーカスしているかを知るためだ。そこには、「意識を向ける(フォーカス)ものは拡大する」「フォーカスすると思考は現実化する」「フォーカス(焦点)を変えると現実が変わる」という概念が存在する。 ピッチの外からコーチの姿や声をカメラでとらえるだけでなく、撮影される側は胸にアクションカメラとピンマイクをつけた。選手たちがその指導をどう受け止めているかを探るためだ。指導を前向きに受け止めているのか、それとも委縮しているのか。もしくは理解できないのか。そういったことがアクションカメラに映る選手の表情や動きから鮮やかに浮かび上がった。 撮影したビデオを見て、私たちコーチは互いに「あのアドバイスにはあなたの欲望が潜んでいない? それって何だろう?」「選手に考えさせたほうが良かった」と指摘し合ったり、「あそこで選手に問いかけたのは良かったね」と褒め合ったりした。 選手にこうしなさいと命じるほうが手っ取り早いのかもしれない。しかし、その指導では限界があることを、私はプエルタ・ボニータ以降のコーチ歴で痛切に感じていた。指導者と選手の両者に「責任と主体性」を求めるセルヒオのメソッドに、私も他のコーチたちも徐々に活路を見出していった。 ※次回連載記事は9月13日(金)に公開予定 (本記事は竹書房刊の書籍『本音で向き合う。自分を疑って進む』から一部転載) <了>