“謎の航路”が5年ぶりに復活! 「イースタンドリーム」が見せる異国情緒と運賃倍増、日韓関係改善の象徴になれるか?
歴史をひもとく航路の系譜
東海で乗船したイースタンドリームには、すでに先客が数人いた。男性ばかりで、いずれもロシア語を話していた。彼らはウラジオストクから乗船していたロシア人だった。 商用なのか観光なのか来日目的はわからないが、その存在が「謎の航路」にさらに輪をかける。しかし、DBSクルーズフェリーの航路開設当時から、イースタンドリームは境港と東海さらにウラジオストクと、日韓そしてロシアの3か国を結んでいた。また、境港~東海区間の休止中も、韓国とウラジオストクを結ぶ航路は存続していた。 日本とウラジオストクを結ぶ航路。それは昔、欧州へとつながっていた。1912(明治45)年6月15日、東京駅から金ヶ崎(敦賀港)駅に直行し、ウラジオストクへの船便とシベリア鉄道に接続し、パリまで17日間で結ぶ欧亜国際列車の運行が始まった。そして欧州を目指す日本人の多くがウラジオ航路を利用し、シベリア鉄道でユーラシア大陸を横断していった。しかし第2次世界大戦の激化とともに欧亜国際列車も1940(昭和15)年に消滅した。 ウラジオ航路は、1956年の日ソ国交回復をうけ1961年に再開された。ただし、ウラジオストクは軍港として一部の例外を除き外国人の居住とソ連(当時)国民を含む市外居住者の立ち入りが禁止される閉鎖都市だったため、横浜とナホトカを結ぶ航路として復活した。 1964年、日本人の海外旅行が自由化される。横浜港から欧州に向かう日本人を運んだのは、ナホトカ行きの貨客船だった。ナホトカ航路を就航させたソ連極東船舶公団(FESCO)とタイアップしたJTBの「ソ連セット」は1967年に発売開始される。 ソ連極東船舶公団船バイカル号は、今、船体をかすかに震わせながら、出航を待っていた。
ソ連セットのブームと終息
五木寛之の小説『青年は荒野をめざす』(1967年)の冒頭に登場するバイカル号とは横浜とナホトカを結んだ実在の船。船とシベリア鉄道をセットにした欧州行きの格安旅行プランは当時の若者たちに人気を博した。コースは、 「横浜 → (船)2泊3日 → ナホトカ → (列車) → ハバロフスク → (航空機) → モスクワ(2泊) → (列車) → (ウィーン、ヘルシンキまたはストックホルム)」 料金は12~13万円台であった。そして五木の『さらばモスクワ愚連隊』(1966年)がベストセラーとなり、FESCOの船とシベリア鉄道での欧州行きは最先端の旅行スタイルとしてもてはやされた。 一時はキャンセル待ちが出るほどの大人気で、春から秋にかけてソ連にはJTBのモスクワ駐在員が派遣され現地での出迎え、あっせんするほどのブームだった。しかし、欧州への航空運賃がどんどん安くなり、「ソ連セット」の人気も見る見るうちに低下。1975年には取り扱いが中止となる。 横浜~ナホトカ航路はそのまま継続し、1988年に配備されたのが「コンスタンチン・チェルネンコ」という船だった。ソ連書記長の名前が付いたこの船は1991(平成3)年のソ連崩壊とともに「ロシア」を意味する「ルーシ」へと改名。そして1992年1月1日にウラジオストクが対外開放されるとともにロシア側の港もナホトカからウラジオストクへ、1993年には日本側の港も横浜から富山県高岡市の伏木港へと変更される。 しかし、ルーシは『青年は荒野をめざす』船ではなかった。2000年代初頭にこの船でウラジオストクに向かった人の体験談を聞いたことがある。この方はいった。 「伏木港にはターミナルがなく、ルーシ船内で日本出国手続きを行った。係員は私が出したパスポートに驚いていた。『あなた、日本人ですか。これは珍しい。この船に乗る日本人なんて久しぶりだぁ』といった。係員が驚いた理由はすぐにわかった。乗客はほとんどがロシア人。あとは欧米のバックパッカーが、それも両手で数えられるほどのわずかな人数。そして、私。日本海を行くのどかなクルーズ、というのはこの船ではありえない。なぜならデッキには伏木で積み込まれた無数の日本製中古車であふれて、驚くべきことにプールのなかにもクルマが鎮座していた。この船には車両甲板があるのだが、そこにもおさまりきらないほどの中古車がルーシに乗っかっている。もうおわかりだろう。船客のロシア人とは観光客ではなく、これら中古車のバイヤーたちなのだ」 ルーシは日本で用済みになったクルマの第2の運命を、将来を運搬する船だったのだ。この航路の運命が暗転したのは2009年。同年1月にロシア政府が輸入自動車の関税を引き上げたことで、ルーシの中古車輸送実績は2008年の約1万5000台から2009年は約3900台へと激減。中古車バイヤーのロシア人の利用も激減したルーシは、2009年12月にとうとう運休となる。ここで1961年以来のFESCO航路はその幕を閉じた。