伝説のルンガ沖夜戦、勝利をもたらした栄光の駆逐艦たちの「その後の運命」
沈んだ駆逐艦は親潮、黒潮、陽炎、そして次には江風も
その黒潮がいちばん悲惨な衝撃を受けた。親潮の重本少尉には、天に冲した火柱が消えたとき駆逐艦黒潮の細長い船体が3つに折れたように、眺められた。あっという間もなかった、黒潮は轟沈した。 親潮、陽炎の生存者が愕然と見まもるなかで、2、3分後には姿を消し、あとにはおびただしい浮遊物が浮かぶのみとなった。生き残った乗組員が泳いでいるのであろうか、水面がわずかにしぶいているの が望見された。 大破しつつも、なお浮いている親潮と陽炎の方が、幸運であったというべきなのか。戦場にあっては、あるいは早く沈んだ方が幸運と考えた方がよかったか。艦への愛着をはなれて客観的に判断すれば親潮も陽炎も沈んでいると答えねばならなかったが。その半死の駆逐艦に、数時間後、敵機は容赦ない攻撃をなお加えてきた。 数十機がいくつもの波にわかれ、動けざる艦を見くびるかのようにゆっくり旋回し、そして訓練のつもりもあろうか、悠々たる正面攻撃を加えてくる。親潮も陽炎も最後まで奮戦をした。機銃は頑強に抵抗し、主砲も射撃方向も射撃速度もままならないまま、繰り返して火を吐いた。撃つことで挫けそうになる気を奮い立たせた。 18時17分、真珠湾攻撃作戦参加いらい戦火のなかをくぐりぬけてきた陽炎は、戦い疲れたように、火も煙も吐かずゆっくりと沈んでいった。親潮も前後して海面からひっそりと姿を消した。 近くの無人島にカッターで、あるいは泳いで渡った将兵は、疲労と乗艦沈没の悲哀でむっつりと押し黙っていた。上陸4日にして助け出されるまで、3隻の駆逐艦の生存者のロビンソン・クルーソーぶりもまた1篇の物語になる。 かれらは名も知らぬ南海の孤島で、戦争について、運命について、生と死について多く考えたという。親潮の戦死91名、黒潮83名、そして陽炎は18名という数字が残されている。 駆逐艦江風(かわかぜ)が沈んだのは、さらに3カ月後の8月6日である。 ルンガ沖夜戦時の艦長・若林中佐は昭和17年12月2日に、水雷長・溝口大尉は18年5月にそれぞれ退艦しており、ベラ湾夜戦における江風の死を淋しい想いで聞いたのは、ともに日本内地で、ソロモン海で疲れはてた身体を休めているときである。18年夏、日本は奇妙な戦勝気分のなかにまだ浮かれていたという。
半藤一利(作家)