伝説のルンガ沖夜戦、勝利をもたらした栄光の駆逐艦たちの「その後の運命」
田中頼三司令官の左遷、ガ島放棄のなかでの駆逐艦
12月下旬、下命によって、田中頼三少将は、第二水雷戦隊司令官の任を解かれる。軍令部出仕となる。左遷と噂された。理由は上官の命令に抗したからであるという。 再びはじまるであろうガ島輸送には、空軍の協同なしには、いたずらに駆逐艦を損失するばかりであるから、行くことはできないと突っ張って、ついに応諾しなかったというが、真偽はわからぬ。抗議には戦略上の妥当性があり、かつ過去の戦功から待命にもできず、さりとて命令をきかぬものは去らしめるよりほかはなかった、ともいわれる。後任は小柳冨次少将。 12月30日、開戦いらいの指揮官を見送る二水戦の将兵の気持ちは、複雑であったことであろう。あるものは、その茫洋とした風貌にかぎりない懐かしみを抱いていた。あるものは最前線に必要な男らしい名提督と思っていた。 だが別のものたちは真ん中で指揮をとる中途半端な老将として眺めていた。いずれにせよ、ソロモン海での第二水雷戦隊の役割は、古い指揮官を失うことで終わった。いま闘志の駆逐艦群は頼りない想いを抱いてショートランド湾の広い海面に身を浮かべているのである。 ほとんど時を同じくして、東京の大本営でも陸海合回研究ガ島作戦の図上演習で、ガ島放棄を決定した。会議は12月27日から29日まで三宅坂の参謀本部でひらかれた。演習は表面的には奪回作戦研究の形をとっていたが、本音は撤退作戦を検討しようということにあった。 陸軍も海軍も自分の方からマイナス(放棄撤退)を口にすることはできない。協同研究で奪回不可能の結論が出れば、ともにメンツをつぶさずに撤退作戦が討議できる。ソロモン海では人間の血と汗と涙が鋼鉄と火薬に激突し、生命をあがなうことによって戦われていたが、東京で戦われていたのは体面とか体裁とか主導権争いとか、はっきりいえば、人間の怠慢と不誠実が戦われていたのである。 作戦は決定された。3回にわけて引き揚げる。第1、第2回は駆逐艦、第3回は大発による、時期は昭和18年1月25日~2月10日の月のないときとされた。 のちに連合艦隊司令長官・山本五十六大将の決裁で、3回目も駆逐艦によるものとされた。これには長官の悲痛な決意が基礎となっている。この結果は、よくて兵力の5、6割、駆逐艦の半数は失われるであろうが、しかし、敢行しなくてはならないつらい作戦なのである、と山本大将は覚悟を決めた。 あるアメリカの戦史家は鬼気せまる言葉で述べている。 「ガダルカナルはもはや一つの地名ではなく、得もいわれぬ一種の感動にほかならない。それは絶体絶命の死闘、凶暴な夜戦、気狂いじみた補給と建設の戦い、じめじめしたジャングルでの陰惨な白兵戦、すすり泣くような砲弾、爆弾のうなり声、耳をろうせんばかりの艦砲の炸裂、日夜をおかずつづけられた胸をしめつけられる思い出、そこから生まれる一種の感動なのである。 ときとしてガ島における一大記念碑を脳裏に想い描くことがある。それは花崗岩の高い塔なのだが、その表面には、この島のため生命をささげたすべての人名と、海底に眠る全艦船の名が刻み込まれているものなのである」と。 2月7日、最後の部隊がガ島から撤収したとき、乗り移る痩せおとろえた陸兵も、これを迎える駆逐艦の戦い疲れた乗組員もひとしく涙であった。「大丈夫だ。慌てなくてもいい。全員が乗り移るまではどんなことがあっても動かんから安心せよ。落ち着いて、落ち着いて......」。 艦上からメガフォンで叫ぶ声を聞いたとき、日本人に生まれた幸せを陸兵たちは感じたという。駆逐艦は撤収を完了したあとも「まだ、だれか残ってはいないか」と連呼し、なお岸辺を旋回した。 「英霊二万ノ加護ニヨリ無事撤収ス」 深夜、サボ島をすぎ、電報が旗艦白雪から発せられて、ガダルカナルの戦いは終わった。沈没せる駆逐艦= 睦月、朝霧、夏雲、吹雪、叢雲、暁、夕立、綾波、早潮、高波、照月、羽風、巻雲。