伝説のルンガ沖夜戦、勝利をもたらした栄光の駆逐艦たちの「その後の運命」
太平洋戦争における重大局面とされる日米激突のガダルカナル島の戦い(1942年8月~43年2月)のなかで、ルンガ沖夜戦(1942年11月30日夜)では、日本海軍が完勝します。 【写真】ソロモン諸島・ガダルカナル島 当時、アメリカ軍に制空権を奪われはじめていた日本軍は、快速の駆逐艦に、ガダルカナル島(以下、ガ島)の陸軍部隊への補給物資の輸送という、本来の役割とはいえない任務の遂行を命じていました。 この任務を、日本の駆逐艦乗りたちは「ネズミ輸送」と自嘲し、アメリカ軍は「東京急行(トウキョウ・エクスプレス)」と呼んだことが知られていますが、ルンガ沖にて両軍が会敵したさい、酸素魚雷を搭載した駆逐艦の奮闘により、日本海軍に勝利がもたらされたのです。 この夜戦で、参加した8隻の駆逐艦――高波、陽炎、黒潮、親潮、江風、巻波、涼風、長波――のうち、高波は沈められました。太平洋戦争では大和や武蔵といった大艦に多くの視点が向けられますが、「休むことなくいちばん苦闘した駆逐艦」の姿を描かずにはいられなかった半藤一利氏(故人)が、当時の「悲惨」を体験した方々への取材をもとに、残った駆逐艦たちの運命を活写します。 ※本稿は、半藤一利著『ルンガ沖夜戦<新装版>』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
駆逐艦、水雷戦隊の奮闘により、ルンガ沖夜戦には勝利したが......
戦闘は終わった。11月30日の夜だけをかぎってみれば、日本の水雷戦隊は"勝者"であった。しかし、それも所詮は消えんとする火の最後の一瞬の輝きにすぎなかった。 日本帝国は拠点ガダルカナル島(以下、ガ島)の争奪戦に敗れ、いまなだれをうって崩壊しはじめている。戦艦、重巡、空母らの主力はソロモン海を去っていった。ラバウル航空隊もまた過ぎにし栄光を失っている。 奔流のようなアメリカ軍の進攻を食い止め、ときに果敢な攻撃をとることで敵を撃破し、なんとか戦勢の流れを変えようと奮戦するのは水雷戦隊のみである。ガ島のあるかぎり、駆逐艦乗りだけはこの日以後も、なおソロモン海を離れるわけにはいかなかった。 水雷戦隊の将兵の気持ちは、いつでもこれで戦闘がすんだという想いからはおよそ遠く、むしろいまやっとはじまったばかりだと一様に感じている。「東京急行」の終着駅は、いぜんとして、ガダルカナル島であった。 そして現実には? ルンガ沖夜戦の敵主力撃破は長い劇のなかのいわば"劇中劇"であり、主題はいぜんとして戦闘ではなく輸送であったのである。ドラム缶輸送は、いかなる困難と不利が予想されようとつづけられねばならなかった。7隻の駆逐艦(陽炎、黒潮、親潮、江風、巻波、涼風、長波)は12月1日にショートランドへ帰ったが、整備してまたすぐ出撃する。月のない夜がつづくかぎりは、沈むまで、ガ島へ行くのがかれらの任務である。 第2次ガ島ドラム缶輸送=12月3日(結果=揚陸成功、駆逐艦「巻波」小破す) 第3次ガ島ドラム缶輸送=12月7日(結果=揚陸失敗) 第4次ガ島ドラム缶輸送=12月11日(結果=揚陸成功、田中頼三司令官負傷) 12月中旬からガ島近海は月明となる。やむなく輸送は中断せざるを得ないが、ガ島にいけなければ、この間を利用して、ほかのソロモン諸島やニューギニアへの補給を実施するのが駆逐艦の任務である。 第1次コロンバンガラ島およびムンダ輸送=12月16日(結果=揚陸成功) このように、かれらは休めない。生命のあるかぎり敵制空権下を行く。第二水雷戦隊(以下、二水戦)の輸送作戦は一片の命令書のもとにえんえんとつづくのである。出撃すれば全速34ノットで激しく波頭に突っ込んで全身を震わせる。 戦闘旗を風になびかせ勇壮な光景とも見えたが、どの艦もどの人も歴戦難戦で疲れきっていた。旗艦巻波の艦橋で、司令官・田中頼三少将が沈痛に考え込み、やがてポツリとひとり言をもらしたのはこのころであった。「これ以上この無謀な作戦をつづけることは許されないことだ」と。