高校まで無名も…。プロ入り後に化けた日本の怪物6人。現日本代表の主力も! 才能開花のきっかけは?
MF:森保一
生年月日:1968年8月23日 現在、サッカー日本代表の監督を務める森保一は、「無名」の存在から一躍スター選手へと駆け上がった代表例だ。 静岡県で生まれ長崎県で育った森保は、1987年に日本サッカーリーグのマツダ(サンフレッチェ広島の前身)に加入した。森保は長崎日本大学高等学校時代に国体選抜に選出された過去があったとはいえ、当時は全国的には無名の選手。マツダの子会社で勤務をしながら、マツダSC東洋(マツダのサテライトチーム)でキャリアをスタートさせることになった。 大きな転機となったのが、ハンス・オフトの日本代表監督就任だ。日本史上初の外国人代表監督となったオフトが森保を招集したことで、一躍サッカーファンの間でその名前が広まることになる。オフトには、マツダの監督を務めていた時期に森保を指導した過去があった。 その後、森保は守備的MFの位置で日本代表のレギュラーに定着。攻守の要として活躍し、日本に「ボランチ」というサッカー用語が一般化するきっかけを作った。また、サンフレッチェ広島ではチームの象徴的存在にまで登り詰めた。 そして、引退後はサンフレッチェ広島と日本代表の指揮官として卓越した指導力を発揮し、輝かしい実績を残している。森保一ほど成功を収めたJリーガーはなかなかいないだろう。
DF:中澤佑二
生年月日:1978年2月25日 力強いディフェンスで日本のゴールを守ったDF中澤佑二は、険しく、困難な道のりを歩んでプロサッカー選手という夢を叶えた。 「努力の天才」などという簡単な言葉では表現しきれない。中澤はプロへの道を切り拓くために、無名の高校を卒業した後に単身でブラジルに渡った。言語や文化、気候など、日本とは遠く離れた異国の地で、高校を出たばかりの若者が生活することの大変さは想像に難くない。 サッカー留学から帰国後、中澤はヴェルディ川崎(現在の東京ヴェルディ)と練習生契約を締結。自費で練習参加を続け、1999年に遂に同クラブとのプロ契約を勝ち取った。 ここでJリーグ新人王を獲得するなど目覚ましい活躍を見せた中澤は、フィリップ・トルシエ監督率いるシドニーオリンピック(五輪)のU-23日本代表メンバーに選ばれた。 その後の中澤のキャリアは多くの人がご存知のはずだ。2002年に横浜F・マリノスに移籍すると、守備の要として2003年、2004年のJリーグ優勝に貢献。以降、すべてをマリノスに捧げている。 日本代表では、2006年と2010年のワールドカップ(W杯)に出場した。とりわけ南アフリカW杯では、田中マルクス闘莉王と鉄壁の守備ラインを築き、日本のベスト16進出の立役者となった。 エリートとは程遠かった選手が、日本を代表する偉大なディフェンスリーダーへと進化を遂げた。中澤のサクセスストーリーは、プロを目指すすべてのプレイヤーに勇気と希望を与えている。