高校まで無名も…。プロ入り後に化けた日本の怪物6人。現日本代表の主力も! 才能開花のきっかけは?
MF/DF:長谷部誠
生年月日:1984年1月18日 日本サッカー史上最高のキャプテンは誰か。候補はいくつかあるが、3大会連続(2010年、2014年、2018年)でワールドカップ(W杯)における日本代表の主将を務めた長谷部誠の名前を挙げる人も多いのではないだろうか。 いまでは圧倒的な知名度を誇る長谷部だが、プロ入りまでは全国的に名の知られた存在ではなかった。 なぜなら、静岡の藤枝東高等学校に在籍していた当時の長谷部は、全国高校サッカー選手権に出場した経験がなく、年代別日本代表でも主力の位置付けではなかったからだ。 しかし、長谷部はプロ入り後にその才能を完全開花させる。高校卒業と同時に浦和レッズに加入すると、トップ下やボランチで出場機会を獲得。高い戦術理解力を見せつけ、長短を織り交ぜたパスで攻守の要として活躍した。 そして、2008年にはヴォルフスブルク(ドイツ)にステップアップを果たし、2024年までの17シーズンにわたってブンデスリーガでプレー。ボランチからリベロまで幅広いポジションで堅実なディフェンスと高いゲームメイク力を発揮した。 ドイツでは、ピッチ内外で高いリーダーシップと献身性を発揮する長谷部のことを「カイザー(皇帝)」と呼ぶ人まで現れた。無名の若手から日本代表キャプテン、そして皇帝へ。長谷部誠のキャリアは異次元のステップアップの連続だ。
MF:福西崇史
生年月日:1976年9月1日 日本代表にはプロになる前から「逸材」として注目を浴び、年代別日本代表に招集されてきた選手たちが少なくない。彼らをエリートとするならば、元日本代表MF福西崇史は(全国的には)無名に近い存在からのスタートだった。 愛媛県で生まれた福西は、1992年にフォワードの選手として新居浜工業高等学校に進学。年代別日本代表への招集歴は無く、3年時に出場した全国高等学校総合体育大会(インターハイ)でも大きなインパクトを残せていなかった。 しかし、プロ入り後に福西はサッカー選手として覚醒を遂げる。1995年にジュビロ磐田に加入した。 飛躍のきっかけとなったのが、当時チームを率いていたハンス・オフト監督によるコンバートである。それまで前線でプレーしていた福西は、ボランチの位置で起用されるようになった。 このコンバートは大成功をおさめ、福西は中盤で視野の広さと卓越したスキルを発揮するようになる。当時、黄金時代を築いていた磐田の主軸にまで成長した。 1999年に日本代表デビューを果たすと、福西は誰もが知るスター選手となる。最終的に2度のワールドカップ(W杯)を含む国際Aマッチ64試合に出場した。コンバート成功がキャリアを大きく変えたサッカー選手の代表例である。
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