江戸時代の奉行所は「アル中更生施設」だった?…「江戸時代の酒乱たち」は親族や町にどう扱われ、どう裁かれていたのか
家族と町からの信頼度が量刑に関係する
延享五(1748)年二月朔日の夜、利平治は西古川町の自身番所に出向き、番人の勘右衛門に傷を負わせた。おそらく勘右衛門は当番で詰めていたところを襲われたのであろう。勘右衛門の倅・久次郎がこの件を奉行所に訴え出た。 利平治を呼び出して吟味すると酒乱で、吟味している時にも不法行為をするようなありさま。また牢内でもわがまま放題。どうやら利平治はアルコール依存症だったようである。 酒に酔った上でのこととはいえ、傷害に及んだのだから罰を受けるのは当然のように思われる。しかしそうはならなかった。勘右衛門の傷が平癒したこともあり、今回の件は酒狂が過ぎたことであるから今後はいかなる手段を用いても酒を慎ませます、といった内容の申し入れを町内の者が連判して奉行所に提出した。 そして勘右衛門父子も、今回の件に意趣遺恨がない旨を町乙名に申し出た。奉行所もこれらの申し出と利平治本人が後悔している様子を考慮して、今回の罪を許して利平治に出牢を命じ、過料三貫文で済ませている(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(二)六五頁)。 この事例が先ほどのものと異なるのは、家族と町の、罪人に対する信頼である。こうしたことも奉行所の罪人への処分には大きな影響を与えていた。この時代、人を更生させるのに、家族だけではなく町が大きく関わっていたことをこうした事例は教えてくれる。
松尾 晋一(長崎県立大学教授)