江戸時代の奉行所は「アル中更生施設」だった?…「江戸時代の酒乱たち」は親族や町にどう扱われ、どう裁かれていたのか
酒飲みの更生を願う
寄合町の忠次郎は大酒飲みでわがままを働き、養父の西田忠左衛門が意見すると、かえってそれを恨み町内で騒動を起こしていた。同様のことが数度くり返されたので、養父と町の世話役と言える乙名、組頭は奉行所に実方(血縁の親類一同)に何でも申し付けてくれるようにと願い出た。このケース、養父たちは地縁よりも血縁の者による更生を期待して、このように奉行所に願ったのである。 その結果、忠次郎は、享保四(1719)年に四ヵ月ほど入牢していた。その後、養父と町役人は奉行所に忠次郎の出牢を願い出ているところから(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)一六九頁)、養父と町役人の行為は忠次郎更生のため一時的にお灸を据えることが目的であったことがわかる。
奉行所は「酒乱更生施設」?
同様の事例は享保七(1722)年にも確認できる。森田清左衛門は普段から品行が悪く、酒乱だった。町内のみならず隣町の者も不安なので、一家の者たちも入牢を願っていると乙名、組頭が連判して奉行所に願い出てきた。奉行所は、さしあたり犯科もないので、手錠をかけて懲らしめとして町預とした。 しかし願い出た方は奉行所の判断に納得できず、もともと乱心同然で家内の者も難儀であるとして、ふたたび乙名と組頭が奉行所に書付を持参した。奉行所としては無碍に扱うこともできず今回は入牢を命じた。 ここまでの話だと、森田清左衛門はだれの手にも負えない人物に見える。しかし妻子にとっては違っていた。奉行所に心底は直っていると願い出たのである。奉行所は、乙名、組頭の願いが強かったから清左衛門を入牢にしたが、そもそも罪を犯したわけではない。したがって妻子の願いを受け入れ、清左衛門の出牢を許した(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)一八〇~一八一頁)。 長崎の社会が奉行所を、問題人物の更生に利用できる存在と見なしていたことがこれらの事例からうかがえる。また奉行所の方でもその役割をじゅうぶん理解していたことを、以上の例から知ることができる。