美少女イラストは女性に対する「危害」なのか? “性的な表現”やヘイトスピーチの規制が難しい理由
「ステレオタイプ」が女性に及ぼす影響
――個々の表現の悪質性は低く、一般には受忍限度の範囲内と言えるものであっても、街中や公共の場で何度もそういった表現を目にすることで、個々人に被害や抑圧の経験が「累積」していく、ということが問題視される場合もあります。 志田教授:基本的に、法律とは人々の「内面」には踏み込まず、社会の外面に現れた事柄を判断の対象にするものです。 一方で、表現が人々に与える心理的な影響や、表現規制が人々に与える萎縮効果といった問題を考えるなら、内面への作用を無視することはできません。表現の影響が蓄積されることで、萎縮的な人格にさせられる、という場合もあるでしょう。 私も経験がありますが、女性は家庭的にふるまったら褒められる一方で、政治的な発言をすると「女性として好ましくない」と言われやすい文化的環境がありました。10年くらい前までは「そんなこと言っているから結婚できないんだ」「そういう話題で男に勝ってしまうと孤独死コースが待っているよ、女の孤独死はみじめだよ」とからかわれることも多かったですね。 個々の発言は雑談のなかで出てきたものであり、悪意がないとしても、色んな人に色んな場面でそういったことを言われ続けることで、私のなかに「積もっていく」という感覚は確かにありました。 幸いにして、私は憲法研究者という職業を手に入れ、「ここでひるんでいては仕事にならない」という強い意志を持つことができています。しかし、研究者になっていなかったら、こうした雑談の「蓄積」が内面化されることで私の人格も影響を受け、女性というもののステレオタイプ、いわば「型」に、自らはまっていったかもしれません。 ですから、マッキノンが言うような、男性社会にとって都合のいい、魅力的な「女性」の表象が個々の女性の内面にも社会にも影響をもたらす、という作用は確かにあると思います。 しかし、法律によってそのような表現を規制することは難しいでしょう。 「何が魅力的であるか」という表現は表現者の自由に任せるべきですが、一方で、そのような表現が積み重なると同調圧力や圧迫として作用する。……こういった問題は、一つには、規制よりも「モア・スピーチ」、つまり「それは違う」という対抗言論によって解毒していくものだと思います。もしも、ある人が「それは違う」と言えない状況に追い詰められ、実質的に「表現の自由」を奪われているとしたら、「表現の自由」を回復するために法の力を使う必要もあるでしょう。 次に、「表現が発表されている場が公共空間であるか否か」によって判断すべきだと思います。公共空間にある表現は、政府や自治体がその表現を公的なものとして認めている、ということになります。したがって、女性やマイノリティへのステレオタイプを助長させるような表現や不適切な性的表現は、すくなくとも公共空間に採用することは望ましくない、という形で制約をかけていくことになるでしょう。企業内の仕事空間も同じです。企業内の仕事空間で、働く人をいたたまれなくさせるような性的なポスターが貼られている、といったことを「環境型ハラスメント」と言いますが、企業経営者は、そうした環境型ハラスメントをなくしていくハラスメント防止対策責任を負っています。 一方で、芸術表現として美術館などしかるべき空間に置かれている作品の場合は、観る人がそれをわかって観に来るわけですから、そこを同じ基準で制約すべきではない。この思考の仕分けが必要です。 志田陽子 武蔵野美術大学教授。博士(法学)。憲法理論研究会運営委員長(2022-2024)、全国憲法研究会運営委員、日本科学者会議共同代表、日本女性法律家協会・憲法問題研究会座長。芸術・文化政策に関連する憲法問題の理論研究を続けながら、表現の自由と多文化社会の課題に取り組んでいる。著書に『表現者のための憲法入門 第2版』(武蔵野美術大学出版局、2024年)、『「表現の自由」の明日へ 一人ひとりのために、共存社会のために』(大月書店、2018年)など。
弁護士JP編集部