美少女イラストは女性に対する「危害」なのか? “性的な表現”やヘイトスピーチの規制が難しい理由
ミクロな問題とマクロな制度との“ズレ”
志田教授:ここには、個人が受けた被害を救済する必要があるというミクロな問題と、言論空間を健全に保つために表現の自由を守る必要があるというマクロな問題との「ズレ」が存在します。 ミクロのレベルでは、表現によってつらい思いをした人の訴えを、真剣に聞くべきです。しかし、個々の問題はケースバイケースで、被害性、表現の害悪性の深刻なものとそうでもないものとがあります。だから裁判でケースバイケースの解決を図るわけです。このとき、被害者がいちいち訴えなくてもすむように、法律で先回りをして表現規制をするというマクロなレベルでの解決をしようとすると、落としどころを見つけるのは困難になります。すべてのケースをもっとも深刻なケースに合わせて規制しようとすれば、表現の自由が制約され過ぎてしまいます。差別表現の問題について考えるときには、このジレンマがどうしても存在する。 こうした問題について参考になるのが「アイヌ肖像権裁判」です。アイヌの人々が「自分たちの生活の様子や民俗文化について紹介してもらえる」と思って民俗学者の調査に協力して写真の撮影を許可したところ、実際にできあがった本は昔通りのステレオタイプを強調する差別的な内容であり、アイヌの人々は屈辱を感じて、裁判を起こしました。 裁判の結果、民俗学者は出版を取り下げて、アイヌの人々と和解した。これは批判が出ることで表現者が問題に気づき、対応をとった、つまり「言えばわかる」という事例でした。 もしも表現の自由を問答無用で禁止したら、差別をした側も自分の言葉のどこが差別的でどのように人を傷つけたか、ということを考える機会がないまま、心にわだかまりを残すことになるでしょう。 表現の自由を守ることで、差別表現で傷ついた人が「私は傷ついた」と言う自由も守られることになります。言われた側はその言葉を受け止めて再考する。言論の自由市場がまともに機能するというのは、そういうことだと考えます。