62年前に廃線になった“幻の高原鉄道”が今も走っていたら…バスとの競争に負けた鉄道が持っていた「唯一無二の風情」とは
北軽井沢駅すぐ近くの国道と交差したところには...
線路が通っていたであろう場所の多くは、町の中に消えている。それでも、すぐ近くの国道と交差していたあたりには、自然に帰りつつある廃線跡が確認できる。もちろんレールも枕木もないけれど、ここに踏切があって、高原列車が走っていたのであろうことは、確かに想像できる一角だ。 草軽電鉄は、旅客輸送に加えて沿線の木材や薪炭、また吾妻川流域で産出される硫黄鉱石などの輸送も担っていた。全盛期は戦前で、大正時代の末から昭和初期にかけて。旅客輸送においては戦後も輸送量を増やしており、一時期は年間50万人近い乗客がいたこともあった。 しかし、時代は徐々にバスの時代へ。1935年には国鉄バスが上越線渋川駅から草津温泉までの運行を開始し、1945年に現在のJR吾妻線が開業して、草津温泉への交通の便は大きく改善する。吾妻線を頼れば、東京からなら高崎線・上越線と乗り継いで、吾妻線の長野原駅(現在の長野原草津口駅)からバスに乗る。わざわざ軽井沢まで行ってから3時間30分も高原列車に揺られる旅を選ぶ人がどれだけいるか。 そういうわけで、1950年代から利用者は激減してゆく。草軽電鉄は戦時中に東急の傘下に入っており、沿線開発のために国鉄長野原線(現在の吾妻線)払い下げを申請するなど、戦後も東急は草軽電鉄の沿線開発や活性化のために力を尽くしている。 しかし、こうした努力も実ることはなく、吾妻川を渡る橋梁が水害で流されるなどの被害もあって万事休す。1960年には乗客は6万人を下回るまでに減少し、同年に新軽井沢~上州三原間、1962年には残った上州三原~草津温泉間が廃止となって地図から消えることになった。 いま、軽井沢と草津にほど近い長野原の間は国道146号が連絡している。146号は中軽井沢から通っているので、草軽電鉄の後継となると三笠通りから白糸ハイランドウェイだろうか。そして、ここには鉄道廃止後の草軽電鉄、現在の草軽交通が路線バスを走らせている。 草軽電鉄は急勾配を越えるために山の中をカーブを繰り返しながら走っていたが、バスならば白糸ハイランドウェイを一直線。急行便ならば、軽井沢~草津温泉間を1時間20分ほどで結んでいる(軽井沢~北軽井沢間は40分ほど)。鉄道時代の3時間30分からすれば、圧倒的な高速化である。