62年前に廃線になった“幻の高原鉄道”が今も走っていたら…バスとの競争に負けた鉄道が持っていた「唯一無二の風情」とは
〈62年前に地図から消えた“幻の高原列車”を追う 軽井沢~草津温泉を結ぶ廃線跡はほとんど消滅、しかし林の中には…〉 から続く 【画像】山の中に埋もれた“幻の高原列車”草軽電鉄を写真で一気に見る 長野県の避暑地・軽井沢と、群馬県の温泉地・草津を結ぶ鉄道が、かつて走っていたことをご存知だろうか。 南北につづく全長55.5kmの路線を走る小さな客車が、浅間山のふもとを縫って避暑地や温泉地に向かう人を運んでいたが、1962年に廃線になった。それから62年が経過した“失われた線路”を訪ねた。(全2回の2回目/ 最初 から読む) ◆◆◆ 草津温泉ともども、沿線の浅間山麓の高原地帯も草軽電鉄の恩恵に浴した。そのひとつが、北軽井沢だ。 北軽井沢駅は、地蔵川駅の名で1918年に開業している。北軽井沢一帯は、明治時代に綿羊や軍馬の生産地として開拓され、昭和初期には法政大学学長の松室致が自ら保有していた土地を文化人向けの別荘地「法政大学村」として切り開いた。
大江健三郎や谷川俊太郎も足を運んだ
地蔵川駅は1927年に駅名を北軽井沢駅に改め、駅舎もリニューアルしている。新駅舎は、法政大学村から寄贈されたものだという。いまも北軽井沢に残っている駅舎は、そのとき寄贈されたものだ。駅舎の欄間(らんま)に「H」があしらわれているのは、法政大学のHである。 草軽電鉄によって北軽井沢周辺の開発も一層進み、高原の別荘地・避暑地として定着してゆく。早くから別荘地として人気を得た軽井沢から静謐な環境が失われてきたことを受け、あえて北軽井沢まで足を伸ばす文化人も少なくなかった。大江健三郎や谷川俊太郎なども、夏には北軽井沢で執筆活動にいそしんでいたという。 かつての草軽電鉄の北軽井沢駅舎は、今でも北軽井沢の中心にある。後年開拓された北軽井沢らしく、町の区画は碁盤の目。そうした中にあって、中心の北軽井沢駅周辺だけは放射状に伸びる道路が整えられている。 このあたり、いかに北軽井沢駅のインパクトが大きかったのかを物語るものといっていい。いまや鉄道の消えた北軽井沢だが、古く地域発展の要になった草軽電鉄への地域住民の思いはひとしおなのだろう。 そんな北軽井沢を少し歩く。