北朝鮮の「核放棄」裏切りの歴史 坂東太郎のよく分かる時事用語
2005年の「6か国協議」合意
漂流してしまった米朝枠組み合意。しかし国際社会も北朝鮮も「これでいい」とはなりません。北朝鮮は、そもそも朝鮮戦争で敵となり、まだ休戦状態で「いつでも再開できる」という不安定をもたらすアメリカに体制維持を約束させたいがために、交渉材料として核開発を行っている可能性が濃厚で、アメリカとしても、東アジアに敵対的な核保有国が存在するのは避けたい。 加えて、2001年の「米同時多発テロ」をきっかけに、同年のアフガニスタン戦争、03年からのイラク戦争を仕掛けたアメリカに内心恐れも抱いたでしょう。何しろ当時のイラクは北朝鮮とともにアメリカから「悪の枢軸」呼ばわりされた国で、開戦理由は「大量破壊兵器の保持」でしたから。いうまでもなく、核兵器は大量破壊兵器です。 そうした情勢下の2003年8月、中国を議長国とし、韓国と北朝鮮にアメリカ、日本、ロシアで構成する「6か国協議」の場に解決が委ねられました。北朝鮮は米朝2国間協議を望んでいたのに対し、北に対して不信感を持ったアメリカ側は応じず。「6か国」で折り合ったのはアメリカにとって、北朝鮮に近い中国に責任を取らせる形ができるのがメリットで、北朝鮮側の利点は直接、国連安保理で核疑惑が取り上げられるのを避けられるところでしょう。 2003年の第1回協議から第2回(2004年2月)、第3回(同6月)と協議が進められていく中で、北朝鮮はアメリカの敵視政策撤回を、アメリカは今回の米朝首脳会談でもしばしば取り沙汰される「完全かつ検証可能で不可逆的な核廃棄」(CVID=Complete, Verifiable, and Irreversible Dismantlement)を主張しました。ただ一方で、アメリカが核放棄に対する見返りに言及するなど米朝間で多少の歩み寄りがみられました。 そして2005年9月の第4回協議で初めて、一定の拘束力がある合意文書「共同声明」がまとまりました。共同声明では、(1)北朝鮮がすべての核兵器とこれまでの核計画を放棄する、(2)北朝鮮による原子力の平和的利用の権利を参加国が尊重し、適当な時期に北朝鮮への軽水炉提供について議論を行う、(3)アメリカは北朝鮮を攻撃、侵略する意図はないこと――などが確認されました。北朝鮮がすべての核兵器とこれまでの核計画を廃棄する代わりに、適当な時期に軽水炉提供問題を議論するという米朝枠組み合意に似た内容です。 2007年2月に再開された第5回協議では、共同声明の実行に向けた「初期段階の措置」と、続く「第2段階の措置」で合意文書が交わされるに至りました。初期段階では、北朝鮮が寧辺の核施設を停止及び封印する代わりに、石油5万トン相当のエネルギー支援を受けることとし、第2段階では、核施設すべての無能力化と核計画を全部申告する見返りに、石油95万トン相当の支援を受けるという具体的な内容です。 こうした成果は2006年10月、北朝鮮が初の核実験を強行したことを受けて、安保理が制裁決議をするという「圧力」をかけ、協議復帰を強く求めたのが推進力となったのです。北朝鮮は08年6月には合意にしたがって、寧辺の核施設の冷却塔を爆破するなど譲歩する様子を見せつつ、6者協議は「無能力化」などの検証方法をどうするかといった具体論でまとまらず、08年12月を最後に開かれていません。北朝鮮は、09年4月に協議離脱を表明。直後の5月に2度目の核実験を実施しました。 2011年12月、金正日総書記が死去し、現在の金正恩(キム・ジョンウン)体制へと移行します。それからはもう“核実験の嵐”。30代前半と若い正恩氏が何を考えているのか分からないと世界を呆然とさせ続けたのは記憶に新しいところです。