宇野亞喜良が語る、イラストレーターとしての歩み、セクシュアリティ、戦争。大規模個展「宇野亞喜良展 AQUIRAX UNO」を機にインタビュー
「寄席芸的なところが僕のイラストレーションにはある」
──宇野さんはジャンルを問わず多くのメディアで活躍されてきました。なぜ多方面から声がかかるようになったのでしょうか? 僕のほうに意図的なものがあるかはわからないけれども、とにかく依頼があるというのは半分は依頼主の方に読みがあると思うんですよね。で、それに応えるというか。仕事は大体断ったことがないんです。だから編集者とか、依頼する側が宇野亞喜良を作ってるところはあるかもしれません。 落語家とか講談師の寄席で、 お客さんがテーマを出して即席で演じるみたいな。それが僕の場合は1ヶ月なり2週間時間をもらって、相手のイメージを外さないように自分の面白さを出していくっていう、ちょっと芸能人的な、寄席芸的なところが僕のイラストレーションにはあると思います。依頼側としては多少の裏切りも快感だったりとか。だから今回展示されているものも、オーダーがあったからこそできた作品なんです。 ──宇野さんは、それまで挿絵画家が主な担い手だった時代小説にも80年代以降取り組まれています。「木枯し紋次郎」シリーズは挿絵界の巨匠・岩田専太郎も担当した作品でした。「挿絵からイラストレーションへ」という時代の変化をここから読み取ることもできると思うのですが、どのような経緯や意図があったのでしょうか。 「木枯し紋次郎」は岩田さんが亡くなってからほかの人が描いてたんですが、その後に僕が描くようになりました。これにつながるエピソードなのかはわかりませんが、時代小説を描くようになったのは、パーティーで『小説現代』の編集長に提案をしたんですよ。 それまで時代小説は日本画系の人が描いていて、様式美が守られていました。だから土砂降りの中、泥を跳ねさせながら歩いてる侍とか、そういうリアリティが小説では書かれているんだけど、挿絵が端正なものに変わっちゃってた。そこをリアルに描いてみたいから仕事を下さいよって話をしたんです。時代小説ではリキテックスを使って、そういう感覚を表現するようにしています。 ──ほかに印象に残っているお仕事はありますか? 横尾忠則と合作した絵本『海の子娘』(朝日出版社、1962)ですね。前半が横尾忠則で、後半は僕が描いているんですが、中間に2人の絵がオーバーラップする見開きが4、5枚あるんです。青のセロファンを置くと横尾忠則の絵だけが見えて、赤のセロファンを置くと僕の絵だけが見える。このように2人の描き手が交流して、物語が変容して終わるという。どっちが考えたのか正確なことは覚えてないのですが、共作の方法としてはなかなか良かったと思っています。和田くんなんかは、すごいうらやましがって「3人でできないのか」とか言われました。 ──ひるがえって考えてみると、宇野さんのイラストレーションは横尾さんとの合作もそうであるように、異質な要素が分離せず、共存していることが特徴です。実際の制作ではどれくらい事前に決めて取りかかるのでしょうか? 構図を決めるときもあるし、まったく勝手に描いていくこともあります。よく言われるモチーフの変容は、たとえば猫を描いていて「猫じゃちょっと弱いな」と思うと、顔だけ虎にしてみたり。それである種異様さを出すっていうか、人をちょっと驚かせたい感覚なんです。計算ずくではなくて、アドリブも多いです。 ──60年代には雑誌『新婦人』やマックスファクターの仕事で、写真も使用されていますね。 そうですね。写真に直接手で描きこんだり、切り抜いて貼ったりしています。マックスファクターの「Fragrance Festival」では当時の新聞印刷の製版の粗さを利用して、絵の中に写真を合成しています。僕の友人で木村恒久という人がいたんですが、切り貼りした厚みが出ないよう小口をサンドペーパーで削ったり、グレーで塗ったりしていました。僕も合成をするときはサンドペーパーをかけたと思います。こういうコラージュができるというのは、当時の新聞製版の利点でしたね。