福島で3.11伝えたアナウンサーの思い 現在は故郷・大阪で防災の大切さ訴え【#あれから私は】
3か月ぶりの一時帰宅に同行取材、生きていたペットとの再会に立ち会う
その後も相馬市へ通う日々が続いたが、同年5月、藤川さんは郡山支社へ報道記者兼アナウンサーとして転勤。これは震災以前から決まっていたもので、郡山支社でも原発事故のため郡山市への避難を余儀なくされた富岡町や川内村の住民たちの取材を担当した。 自宅に戻れない住民に許された、わずかな一時帰宅の取材にも防護服を着て同行。中には、空き巣被害に遭った家もあり辛かった。そして、家族のように大切にすごしてきたペットや家畜が死んでいる状況に涙する住民らの姿も辛かった。 しかし、富岡町の住民の一時帰宅を取材した際、ペットの犬が生きていたという場面にも立ち会えた。 「鎖につながれた状態で3か月間飼い主を待っていたんです。飼い主の方はすぐに帰れると思い、エサを多めに置いて避難された方が多いんですよね。ロクという名前の犬で、かなり衰弱していましたが、一時帰宅した飼い主さんに駆け寄り、飼い主さんが『ロクごめんな』と抱きしめた光景は今でも忘れられません」 その後しばらくして、飼い主から「ロクは私の腕の中で死にました。ロクはよくがんばりました」という連絡をもらった。この言葉も、藤川さんは忘れられない取材の一つと振り返っていた。
人生の中で最も難しい決断だった故郷のラジオ局アナへの転職
震災から2年後の2013年、藤川さんはある決断をした。自分の故郷である大阪市にあるラジオ大阪が、アナウンサーを募集していることを知って応募した。 「津波による被害が大きかった被災地はまだまだ大変な状況でしたが、私が勤務していた郡山支社の取材区域では、多くの方が仮設住宅に入るなどし、少し落ち着いてきた時でした。自分の使命感が変化したと言えば大げさかもしれませんが、この福島の3.11当時をしる人間が全国に散らばり、福島のことを伝えていくのも使命ではないかという思いもありました」と藤川さん。 その大きなきっかけの一つが、3.11当日、県庁の知事会見取材をへてから本社へ向かう際、速報していた地元ラジオ局の報道だった。「あの時、僕は手にビデオを持って走っていたけど、ラジオではその模様を詳細に伝えていました。媒体は違うけれど、ラジオの力を目の当たりにし、ラジオをやってみたいという思いになりました」と当時を振り返る。 また、南海トラフ巨大地震などが心配される中、自分が育った大阪・関西の人たちを守ることができないか。ラジオ単営局だったらそれができるかもしれないとも考え、ラジオ大阪への転職を決めた。 福島を離れるのは「人生の中でも最も難しい決断だった」と藤川さん。しかし、ラジオ大阪は今年1月、阪神淡路大震災や東日本大震災などの災害の記憶を風化させることなく、災害にしっかり備えるため「防災ラジオステーション宣言」を行い、防災・減災を呼びかけていく。そして、藤川さんも今月には防災士に認証登録される予定となっている。