福島で3.11伝えたアナウンサーの思い 現在は故郷・大阪で防災の大切さ訴え【#あれから私は】
元・福島テレビ、現在はラジオ大阪の藤川貴央アナウンサー
「ずっと福島で伝えたい思いがありましたが、今は故郷の大阪で防災の大切さなどについて呼びかけています。3.11で人生観が変わりました」と話すのは、ラジオ大阪の藤川貴央アナウンサー(33)。2011年3月11日の東日本大震災発生当時、藤川さんは福島テレビ(福島県福島市)のアナウンサーとして勤務し、2013年の同局退社まで震災報道の最前線に立っていた。同年から自身の故郷である大阪府のラジオ局でアナウンサーを続けているが「福島での経験を伝えたい」と番組で防災の大切さなどを訴えている。 【映像】東日本大震災取材時の様子を語る藤川貴央アナウンサー「マイクを向けるのは罪悪感を感じた」
7歳の時に阪神淡路経験もその揺れとは確実に違うと確信
生まれも育ちも大阪市旭区。学生時代から「山本浩之さんみたいなアナウンサーになりたい」という夢を抱き、様々なテレビ局を受け、2010年4月、福島テレビに入社した。入社後は、ローテーションでニュースを担当したり、土曜日のバラエティ番組や天気予報などを担当。福島県での生活にも慣れてきた2011年3月11日午後2時46分、あの東日本大震災が発生した。 藤川さんは当時、番組の天気予報の原稿を作るため気象台などに取材後、原稿を作成していた。その時、突然、社内全体に緊急地震速報のアラームがけたたましく鳴り響き、経験したことのない横揺れに見舞われた。 「私は7歳の時に阪神・淡路大震災を経験しました。当時はその時間も起きていたので揺れた記憶がしっかりありましたが、それと比べても明らかに揺れの大きさが違う。なにか地面をかき回されているような揺れで、机の下にもぐるどころか、しがみつくだけで精一杯でした」と藤川さん。 後にその揺れが震度6弱と分かったが約6分半にわたって揺れが続き、近くの棚の上に設置されていたテレビ数台もすべて落ちてきた。揺れがおさまった後、同社では緊急報道体制に移行したという。
中継車出払い無線で状況報告しテープ抱え本社へダッシュ、地元ラジオの速報横目に焦り
藤川さんは福島市内の様子をみてくるよう命じられ、カメラマンと2人で市街地へ。同社の窓ガラス50枚以上が割れ敷地内に散乱したり、市街地では停電のため信号機が作動せず、街の人たちが交通整理をする様子などを取材し本社へ持ち帰った。 次に福島県庁の災害対策本部に行き取材を続けたが、同日午後8時からの佐藤雄平知事(当時)の会見が急きょ前倒しで始まった。 「あわてて取材し、そこで発表されたのは『2号機で放射能漏れの恐れあり』というものでした」と藤川さん。 当時は同社の中継車が沿岸部取材へすべて出払っていたため中継ができず、藤川さんは会見を録画したテープを手に、約2キロ離れた同社へ全力疾走で届けた。会見場を出て非常階段を降りる際、地元のラジオ局アナウンサーが中継で会見の模様を速報しているのを横目に「もうラジオは伝えているのか」と焦った。 携帯電話などが通話不能だったため、藤川さんは無線で同社に状況を伝えつつ、テープを手に停電で真っ暗な市街地を走り続け、間もなくスタジオで局員に届けた。