福島で3.11伝えたアナウンサーの思い 現在は故郷・大阪で防災の大切さ訴え【#あれから私は】
一夜明け、南相馬市の沿岸部で見た光景に絶句
テープを届けた後は、津波で大きな被害を受けているという南相馬市へカメラマンらと移動。夜通し取材を続け、夜が明けた翌12日早朝、沿岸部を取材した時、その光景に絶句した。 「近くにあった高圧線の鉄塔はアメ細工のように曲がり、海岸には津波による多くのガレキ、そして多くのご遺体がありました。その中をずぶぬれになった牛が1頭歩いていて、津波の破壊力の恐ろしさなどを知り、とんでもないことになっていると改めて思いました」
避難所インタビューで聞いた「家族の愛が足りない」
引き続き必死で避難所などを回り「なにか足りないものはありませんか」と質問。取材した人からは食べ物や毛布、下着が足りないという言葉が多く聞かれた。しかし、今でも忘れられないひと言があった。それは「家族の愛」という返答だった。 「その方は避難所へ来たものの、ご家族の方の無事が確認できておらず、家族がここへ集まり、無事が確認できれば、物がなくても乗り越えられる。それが大きな力になるという思いで答えてくださったんです」と、藤川さんは当時のことを話していた。
無線から聞こえた「沿岸部取材クルーは全員撤収しなさい」の声
避難所の後は、南相馬市の沿岸部からの生中継レポートを控え、ケーブルを出すなど準備に追われていた。その時、車の無線から緊急連絡が入った。 無線のスピーカーからは怒鳴るような声で「原発が危ない。沿岸部で取材しているクルーは全員撤収しなさい」という声が聞こえた。あわてて機材を車に入れて、その場を離れた。 その直後、福島第一原発で爆発事故があったとの一報が入った。
罪悪感あった避難所取材、伝える使命感との葛藤
その後は、隣接する相馬市の担当となり、引き続き取材にあたった。行方不明の家族を探しに訪れる人々にマイクを向ける日々が続いた。 藤川さんに当時の気持ちを聞くと「とにかく罪悪感がありました。耐えがたい悲しみの真っただ中にいる人にマイクを向ける。質問をしないと答えが返ってこないので、必ず何かは質問するんですが、こんなに辛い人たちにマイクを向けてその気持ちを聞いて『なんていうことをしてるんだろう』という気持ちがいちばん大きかったです」と答えた。 しかし、この映像を全国の人たちが見た時に、支援が必要ということが伝わり、復興が前に進めば。いま辛い思いをするみなさんが少しでも助かればという使命感もあり、その葛藤がすごく大きかったとも話してくれた。