鴻巣友季子の文学潮流(第19回) 翻訳が浮き彫りにする生の本質 小川哲、水村美苗、グレゴリー・ケズナジャットの小説を読む
母語でないことから見えるもの
このケヴィンという人物はどこか実在の男性作家を髣髴させる。小説家のグレゴリー・ケズナジャットだ。アメリカに生まれた英語話者であり、京都で英語教師として務め、現在は東京で日本語による創作活動をつづけている。 彼には「マイジャパン症候群」という名エッセイがある(「群像WEB」https://gendai.media/articles/-/135739)。これは「古き良き日本文化を本当に理解できる外国人は私だけである」と感じる心理を指すそうだ。 ケズナジャットの話し書く日本語は端整で美しく、とくに文章ではネイティヴでも敵わないと思うことがしばしばだ。彼の小説の主人公たちはいつもこうして「日本語がうますぎる」ことに驚かれたり、いくら流暢な日本語で話しても相手が英語で答えてきたりという経験をする。日本人の多くには、アメリカ人の英語ネイティヴの日本語はこうあってほしいという幻のイメージがあるらしく、自分はそれに閉じこめられていると主人公たちは嘆く。英語という最強のメジャー言語話者の戸惑いと鬱屈を描きだすケズナジャットの小説はユーモラスで鋭い洞察に充ちている。 「単語帳」では、京都と東京に長く暮らす語り手のアメリカ人男性が語り手だ。彼は旅の途中で自分と同程度に日本語の達者な翻訳者マルコムに出会い、自分もやはり彼の達者さに驚いてしまう。マルコムはいま「傷心旅行」の最中だという。 それは失恋の痛手を癒すものではなく、それまでの自分の日本語とある意味、訣別するための旅なのだった。そこからマルコムの問わず語りが始まる。 彼はゲーム翻訳の仕事で、「モフモフ」「モッフー」としか喋らないキャラクターのセリフがどうしても訳せず落ち込んでいたのだ。そうするうちに自分の日本語の大半は恋人から学んだものであり、借り物のように感じだし、さらに思い返せば、自分の言葉が親からの「借り物」だと感じたこともあった。 私たちの使う言葉とは、母語や第一言語だけが本物なのだろうか。自然に身に着いた母語も、一度学びなおすのだと私は思う。ひとは幼少時から身に着けてきた言葉を、少しずつ生きなおすのだ。おそらくそれが年を重ねるということなのではないか。 非母語と翻訳というフィルターを使い、人生の意味をさり気なくあぶりだす秀作である。
朝日新聞社(好書好日)