鴻巣友季子の文学潮流(第19回) 翻訳が浮き彫りにする生の本質 小川哲、水村美苗、グレゴリー・ケズナジャットの小説を読む
底流にある古き日本と日本語への望郷
言語や文化をうち均すかのようなこうしたグローバリゼーションに強く抵抗してきたのが水村美苗である。2008年に出版され話題を呼んだ言語文化論『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』(ちくま文庫)において、彼女は翻訳力学の問題についてこう書いていた。 「どのような文学が英語に翻訳されるかというとき、主題からいっても、言葉の使い方からいっても、英語に翻訳されやすいものが自然に選ばれてしま」う。 「世界を解釈するにあたって、英語という言葉でもって理解できる〈真実〉のみが、唯一の〈真実〉となってしまっている<後略>」 さて、その水村美苗の12年ぶりの長篇は、アメリカに生まれた英語話者でありイェール大学卒の白人男性だ。彼ケヴィン・シーアンは祖父の築いた資産で食べていける立場の「トラストファンド・ベイビー」であり、日本の京都に長く暮らしたのち、いまは東京と軽井沢の別荘を行き来しながら、「失われた日本」というウェブ上の文化プロジェクトを運営している。 ディヴィッド・ソローの森の隠れ家のような小さな別荘を鴨長明にちなんで「方丈庵」と名づけ、隣に越してきた元南米大使夫妻の家は「蓬生の宿」と呼ぶ彼は、自分が「ジャバノファイル(日本好きの)外人」だと自覚しているのだ。 彼はその篠田周一・貴子夫妻と親しくなり、森の中で夢のような交流をつづける。ケヴィンの性的指向は男性だが、貴子には「ほんとうの日本」を求めてさまよう者同士の魂のぶつかりあいを感じ、深く思いを寄せることになる。 月夜に能を舞う、いにしえの銀幕女優のような貴子の言葉遣いや所作に、ケヴィンは日本から失われた高貴さやゆかしさを見出す。ところが、驚くべき事実が明かされるのだ。 夫妻らから聞いた貴子の数奇な生い立ちと運命をケヴィンはあえてやや不自由な日本語で記録することにする。それがこの小説だ。伝聞と語り手を幾層にも重ねる手法は先行作の『本格小説』、そしてその本歌である『嵐が丘』と相通じるものがある。 つまり、ここに書かれた日本語の文章はある意味、英語から翻訳されたものでもあるだろう。また、舞台はブラジル、アメリカにも飛ぶため、ポルトガル語と英語で会話された部分もまた予め「翻訳」されていることになる。 このように予め翻訳を内包した作品を「生まれつき翻訳(born translated)」と命名したのは、比較文学者のレベッカ・ウォルコウィッツだった。『大使とその妻』はまさにその一例と言える。特権的な立場にある男性主人公に、あえて非母語で異郷の社会を見晴らす機会を与えることで、日本語を異化し、彼の追い求めるものは決して掴まらないことを暗示してもいるのではないか。ケヴィンと貴子が抱いているのは幻へのノスタルジーだ。それは作者が20年間の米国滞在から帰国後に抱いている古き日本と日本語への望郷の念と重なっているかものかしれない。