サッカー元日本代表・稲本潤一が28年の現役生活で残したもの
2002年8月のインタートトカップ・ボローニャ戦でのハットトリック!
稲本を語るうえで、もう1つ、忘れてはいけないのが、イングランド・プレミアリーグで初めて実績を残した日本人選手だという点。今では遠藤航(リバプール)、三笘薫(ブライトン)、冨安健洋(アーセナル)、鎌田大地(クリスタルパレス)ら複数選手が毎週のように試合に出ているが、2000年前後の時代は日本にとってプレミアは夢のまた夢だったのだ。 そこに真っ先に引っ張られたのが稲本。2001年夏に赴いた最初のクラブはアーセナルだ。当時のアーセナルはティエリー・アンリ、パトリック・ヴィエラ、ロベール・ピレスら世界最強と言われたフランス代表の主力選手がズラリと並んでいた。 稲本がスター軍団の一員になれたのは、指揮官が90年代に名古屋グランパスを指揮した日本通のアーセン・ベンゲル監督だったことが大きかったが、日本人選手が最高峰リーグの扉を叩くこと自体、異例の出来事だったのである。 アーセナル時代は試合に出られない日々を強いられたが、日本代表活動に参加するたび「Jリーグにいるよりもアーセナルで練習している方がレベルが高い」と本人は口癖のように言っていた。前述の日韓W杯の2ゴールもその経験があってこそ。イングランド人の記者が「あれだけ能力のあるイナモトをアーセナルで使わないのはもったいない」と口を揃えたほど、彼は自身の評価を1年で一気に引き上げたのである。
「日本人とは思えないスケール感を持った選手」と先輩・宮本恒靖も絶賛
直後にレンタルで赴いたフラムでも凄まじいデビューを果たす。その大舞台となったのが、2002年8月のインタートトカップ(UEFAカップ出場権を争った大会)の決勝・ボローニャ戦のセカンドレグ。この頃のフラムは本拠地・クレイブンコテージが改修中で、ロフタスロードという別のスタジアムを使っていて、筆者もそこに赴いたのだが、稲本がいきなりハットトリックを達成。チームにタイトルをもたらしたのだ。歴史的場面を目の当たりにした衝撃は22年が経過した今も脳裏に焼き付いて離れない。 「日本人とは思えないスケール感を持った選手」とガンバ大阪の先輩・宮本恒靖(JFA会長)も語っていたが、そのポテンシャルの凄まじさを強烈に印象付けたのである。 だが、その爆発的なパフォーマンスがシーズン通して継続できなかったのが悔やまれるところ。02-03シーズンはケガもあって途中から出番を失ってしまう。レンタル延長となった03-04シーズンは尻上がりに調子を上げ、ついに2004年夏には完全移籍かと見られたが、その直前の6月のイングランド代表との親善試合で大ケガを負い、交渉が決裂してしまった。