5回失敗と遭難をしながらも命がけで渡航した鑑真和上 不完全な仏教を確立させた功労者の苦難
今回は、奈良時代に大変な思いをしてわざわざ来てくれた鑑真和上(がんじんわじょう)についてお話ししましょう。 ■命がけで海を渡って日本に戒律を確立させた鑑真 西暦538年の欽明朝に百済の聖明王から公式に仏教が伝来したと考えられています。552年説もありますが、それは継体天皇のあとの安閑・宣化両天皇と欽明天皇の即位事情が分からないからややこしいのですが、ここでは『上宮聖徳法王帝説』の538年伝来を有力な説としておきます。 それから100年以上も経って、まだ大和の国の仏教界は完全ではありませんでした。それは正式な僧侶として認められるための「受戒」が不完全だったからです。 奈良の都が華やかな頃、行基(ぎょうき)という優れた僧侶が特に住持することなく、各地を歩いて説法をして人々に仏の道を説いていました。同時に川に橋を架けたり、農業のための溜池を造ったりして大勢の人々に尊敬されていたのです。 その大工事は行基を慕って集まって来る庶民が力と知恵を出し合って完成していくのです。こういう行為を「知識」といいました。今は知識というと知っている事そのものを指しますが、元々はそういう力を合わせて成し遂げる行為を指したのです。 そのころ深い憂鬱と大きな悩みを抱えていたのが聖武天皇でした。巨大な廬舎那仏(るしゃなぶつ)を建立して、仏教で平和な国家を建設しようと考えていた天皇は、国家権力で建造しても意味はないと考えていました。それは単なる押しつけだと考えていたのです。 庶民に至るまでこの国の人々が力を合わせて、「たとえ造像のための材料としてわずかな土塊一つでも持ち寄ってみんなで造った、みんなの大仏でなくてはならない」と考えていらっしゃったのです。その理想をすでに実現していたのが行基でした。聖武天皇は行基に会い、大仏建立の相談を持ち掛けます。そして行基は聖武天皇から大僧正に任命されます。 実は先代の元正天皇の時、行基は詔に名指しで「ニセ坊主」と攻撃されていました。それは、故郷を捨てて税を納めず行基の下に出家した僧侶だと自称する人々が大勢集まって、律令体制の根幹を揺るがしかねない状況になっていたからでした。 ではなぜ自称出家者が多くなったかというと、「受戒制度」が不完全だったからなのです。誰も正式な僧侶であるという認定をすることができず、その方法も知らなかったのですから仕方がありません。 そこで大和朝廷は742年の遣唐使船で唐に向かう栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)という留学僧に「正式な受戒のできる高僧を探して渡来してもらえ」と命令したのです。 あちらこちらでお願いしては断られ、あきらめかけた時に鑑真に出会うのです。「伝戒の師」としてどなたか大和の国にお越し願えないかと鑑真に願い出ると、鑑真は大勢の弟子に問いかけます。 「大和の国に受戒の法を伝える者は名乗り出よ」 しかし当時の唐は秀でた宗教者や学者の出国を禁止していましたし、遭難する危険度の高い日本海を渡ってはるばる大和にまで出かけようという弟子は一人もいません。 すると鑑真が「そうか、ならば私が行きましょう」とこともなげに言うのです。驚いた高弟たちは「でしたら私がお供をします」と申し出たそうです。 ご存じの方も多いと思いますが鑑真一行は5回も失敗と遭難を繰り返し、その間に多くの弟子たちが命を失います。6度目のチャレンジで難破しかけながらも琉球諸島にたどり着いた遣唐使船は、修理をしてやっとこさっとこ鹿児島県の坊津(ぼうのつ)に到達します。 そしてはるばる陸路を移動して東大寺の大仏殿院に到着したのは開眼供養の翌年でした。 鑑真一行は大仏殿の前に戒壇を設置して、さっそく受戒を始めます。最初が聖武太上天皇、次に光明皇太后そして孝謙天皇と、戒名を授かり仏の弟子になるのです。聖徳太子も悩んだ「日嗣の皇子(ひつぎのみこ)が仏の弟子になる?」という疑問に堂々と第一歩を力強く踏み込んだ瞬間です。聖武太上天皇の戒名は「勝満(しょうまん)」だったそうです。 正式な受戒には「三師七証(さんししちしょう)」といって、全部で十人の受戒僧が必要ですので、鑑真はそれに耐える実力のある弟子を引き連れてきたのでしょう。また、その三師の最高位の人を「和上(わじょう)」と呼ぶので、鑑真は和上なのです。 近鉄橿原線西ノ京駅を降りて薬師寺を参拝したら、そこから北へゆっくりあるいて10分ぐらいの唐招提寺にも是非行ってみましょう。ここは、元は天武天皇第七皇子の新田部親王(にいたべしんのう)の宮だった所で、そこをもらい受けて鑑真一行が寺を創建したのです。 有名な鑑真和上坐像も開山堂に安置されています。現在の金堂は鑑真没後に完成しているのですが、当初は「唐律招題(とうりつしょうだい)」という寺名で、後に唐招提寺となったそうです。 ここも1998年に世界遺産に登録されています。松尾芭蕉の句「若葉して おん目のしずく ぬぐわばや」はここで発句したもので、句碑もありますからゆっくりと境内を散策して、鑑真和上の強い信念を感じてみてはいかがでしょうか?
柏木 宏之