片岡義男の「回顧録」#5──『幸せは白いTシャツ』とCB450
片岡義男が語る、1970~80年代の人気オートバイ小説にまつわる秘話。第5回は『幸せは白いTシャツ』とCB450です。 【画像】HONDA CB450 ミニヒストリーの画像を全て見る(全6枚)
オートバイでひとり日本を一周した旅の手記を、三好礼子さんは『ミスター・バイク』というオートバイ雑誌に連載していた。それを僕は読んでいた。記事の冒頭に三好さんの小さな写真が白黒で掲載されていた。その写真を見て、よし、彼女にしよう、と僕はきめた。この顔なら大丈夫だ、と僕は判断したからだ。きわめて僕らしい判断のしかただ。それゆえに、と言っていいだろう、『幸せは白いTシャツ』の写真を撮るいきさつを、かなりのところまで僕はいまも記憶している。 彼女にしよう、ときめた上で、『ミスター・バイク』に彼女の連絡先を教えてもらい、僕が電話をした。当時の彼女は芸術大学でアルバイトをしていた。そこに僕が電話をしたのだ。頼みたい仕事の内容を僕は説明したが、伝わったかどうか。とにかく会うことになり、当時は頻繁に使っていた九段下のグランド・パレスというホテルのティー・ラウンジで落ち合うことにした。 写真家は大谷勲さんにきめていた。だから彼と、角川文庫の担当編集者の三人で待っていたところへ、三好さんがあらわれた。仕事の内容を僕はふたたび説明し、彼女は承諾してくれた。写真家の意見を求めると、写真家としてはなにひとつ文句ありません、という答えだった。彼女がモデルを務めてくれるなら、いい写真が撮れる、という意味だ。 撮影チームを作って有明からフェリーで高知へいき、何日かにわたって撮影はしたのだが、東京に帰ってからの判断では、これは失敗だ、ということになった。だからチームを作りなおして、もう一度、高知へいった。大谷さんのアシスタントはじつに優秀であり、フォルクスワーゲンのマイクロ・バスを普段の足に使っていた男性が、それを撮影車にしてドライヴァーを務めた。ホンダの450はまだ柏秀樹さんのものだったような気もする。そのオートバイのメカニックとして彼も撮影に同行してくれた。 高知からひとまずの目標であった横浪ハイウェイまで、知らないわけではない、という程度の土地勘を頼りに走りながら、撮影をおこなった。九月の初めだった。きれいな晴天に恵まれたのは三好さんの力の一部分だった、といまでも僕は思っている。しかも、そのなかで、いい景色が連続した。 三好さんが着ているオレンジ色のTシャツは、ほかの色の数枚と合わせて、僕が用意したものだ。編集者に前もって渡しておいたら、彼はそれを編集部に忘れたままフェリーに乗った。編集部に連絡して大阪まで持って来てもらい、編集者は四国のとんでもないところから大阪まで受け取りにいき、すぐに撮影地まで引き返してくる、という技を披露した。よく落ち合えたものだと、いま思い出すと不思議な気持ちになる。 技の披露なら僕も負けてはいなかった。撮影がほぼ完了したところで、僕は電車に乗った。高松まで延々と電車でいき、高松で宇高連絡船というフェリーに乗り、宇野から岡山までふたたび電車、そして岡山から新幹線で東京へ戻ったのが夜で、次の日には成田あるいは羽田から飛行機に乗ってハワイへいき、ハワイでは公私混同の見本のような多忙さのなかを、なんとかくぐり抜けた。 ハワイから帰ると『幸せは白いTシャツ』の、文章の部分の締切りが目の前だった。こういうのを過密スケジュールと呼ぶのであり、当時の僕はそのただなかにいた。 文=片岡義男