「東スポ社員」から、国宝も直す京都の一流美術織物の世界へ 独特の業界用語「全く分からない」、5代目の歩んだ道のり
◆東スポに入社、致命的にできなかった数学
─織物業界に入る前には、東京スポーツ新聞社に入社しています。まったく毛色が違いますが、なぜその道を選ばれたのでしょう 車が好きで、中高時代は自動車レースのエンジニアになろうと思っていました。 ただ、技術者になるには致命的に数学ができなかった。 一方でスポーツも好きだったので、スポーツ記者になろうと。 「記者になるなら東京の大学だ」と考えて上京し、卒業後に東京スポーツ新聞社に入社しました。 人間的な部分を探れる面白さがあることも魅力でしたね。 実際には記者ではなく、営業での採用で、広告やイベント企画の仕事をしていました。 その頃に学んだのは、何事も一人ではできないということです。 人それぞれ得手不得手がありますから。 「チームでやる」という感覚は、今に生きています。 ─家業を意識し始めたのはいつ頃でしょうか 東スポに入ってからです。 マスコミの待遇は良かったけれど、家業の繊維製造業は見るに忍びなかった。 社長だった父から、「継いでみるか」という話があったのが、入社して10年ほど経った頃です。 ようやくマスコミ業界のことを覚え、自分で立案したことをやっていけるかなと思っていた時期でした。 龍村美術織物はその頃、一度事業を精算し、事業承継に向けて会社の体制を整えていました。 銀行から融資が下りたところで私に話がありました。 父が四代平藏になる直前です。 あまり顔に出さない父ですが、困っている感じがしましたね。 私の生き方に干渉せず、マスコミに入る時も何も言わなかったのに、突然家業の話をされたので驚きましたが、迷うことなく「やってみようかな」と思いました。
◆「何が楽しいのか」社長の息子じゃなければ辞めさせられていただろう
─マスコミ業界から織物業界に転職された時の印象は これまでの職場とは180度違っていました。 織物を設計する「技術部」に配属されたのですが、社内がすごく静かで、みんな黙々と仕事をしていて。 新聞社ではずっとテレビがついていて、人が行ったり来たり、非常に柔らかい世界。 それに比べて、きれいに整頓されているし、定時になるとみんな帰って飲みにも行かない。 「何が楽しいのか」と思いました。 けれど、規則正しい生活をしないと織物の設計はできないんですよね。 ここでの2年間は、私にとって大きな転換点だったと思います。 技術部が作る設計書に基づいて、原料を買って色を染め、織り手が織っていくのですが、設計の作業は非常に細かい。 眠気が襲ってくるし、仕事になりませんでした。 独特の業界用語があって、言葉が全然わからない。 ベテランの人に付いて、同じことを1日に何度もたずねるのですが、文句一つ言わずに教えてくれたので救われました。 社長の息子でなければ、きっと「辞めてくれ」と言われていたでしょう。 「こんなに難しいことをやっていけるのか」と、不安で悩んでいました。