2025年の干支はヘビ 「豊饒の神」なのに「目が合ったら一族滅亡」ってどういうこと?
2025年の干支はヘビ。脱皮をするその習性から、成長や変化の象徴ともされます。しかし、日本人とヘビとの長い長い関係の歴史を掘り起こした中村禎里さんの『日本動物民俗誌』を見てみると、ヘビが表すところは、どうやらそんな前向きなものだけではないようです。まずはこんな説話から……。 【写真】来年はヘビ年!
夜刀の神
〈『常陸国風土記』(715年ごろ)行方郡(なめかたのこおり)の項に夜刀(やつ)の神という名のヘビがあらわれる。箭括(やはず)の氏のマタチが葦原を切りひらき田を耕そうとしたとき、夜刀の神の群がそれを妨害した。怒り心頭に発したマタチは、このヘビどもを打ちすえ、山のほうに追いやっていわく、「ここより上は神の地となすことをゆるさむ。ここより下は人の田となすべし」。〉 神様にしてはあっけなく敗走したものだなと思わなくもないですが、〈それでもこのヘビ神は、けっこう恐ろしい形態・機能をも示す。形態的には頭に角をいただき、凡庸なヘビでないことを証明している。機能的にも、彼らを直視したものの一族は滅び子孫は絶える、とされるほどの威力をもつ。〉
日本人にとってヘビとは?
この説話から読み取れる「日本人のヘビ思想」とはどういうものでしょうか。 〈第一に、ヘビ神の基本的性格が問題になる。日本の民俗学においては、ヘビ神はなによりも水の神ないし田の神であると見られてきた。しかしここではむしろ、水田の開発経営と対立する神として描かれている。 夜刀の神の話は一つの傍証にすぎないのだが、ヘビが豊饒神信仰とむすびついて、農耕の保護神の一面をもっていたとしても、それはがんらい山神の属性の一部であった。そののち山神としてのヘビは、人びとが新たに発展させていった文化にたいし正負二様に対応していったのだろう。ひとつには文化(=農耕)と対抗する自然(=山)の象徴として、あとひとつは自然(=山)のふところにいだかれた人びとの文化(=農耕)の守護者として。夜刀の神は前者を代表している。 第二に留意すべきなのは「夜刀」の漢字表現である。ヤツは谷を意味するが、これに無作為に「夜刀」をあてたのではあるまい。日本に鉄器が渡来したのちヘビ神と刀神が互換可能になることは、松本信広をはじめ多くの研究者の指摘するところである(「スサノヲノ命および出雲の神々」『日本神話の研究』)。最近の業績をあげると阿部真司は、ヘビ信仰は製鉄製銅を主掌する帰化系氏族の共同幻想でもあった、と論じている(『蛇神伝承論序説』)。 これで「刀」がえらばれた理由はわかるが、「夜」はどこから来ているのだろうか。黄泉の奥つ城で死臭を発するイザナミの体には八種の雷がまといつく。この雷がヘビだとする意見は、津田左右吉以来有力である(『古事記及び日本書紀の新研究』『日本古典の研究』上)。黄泉は闇と通じると思われ、死者の住む夜の世界のイメージをあらわす。この世界をまもるヘビに「夜」の字をあてたのは適切な選択であった。 夜刀の神の説話で第三に注意をひかれるのは、このヘビを見ると一族絶えるという伝承である。南方熊楠は邪視の現象につよい関心をいだいていた人であるが、彼はヘビの邪視力についても強調している(「蛇に関する民俗と伝説」『十二支考』1)。ヘビの邪視力はおそらく吉野裕子が指摘するとおり、この爬虫類にまぶたが欠失していることに関連していよう(『蛇』)。夜刀の神を見るときには彼からも見られる。それが破滅のもとになる。 第四に、夜刀の神は角をもっていた。霊威をふるうヘビの角や耳はめずらしくない。おなじ『常陸国風土記』の香島郡の項にも、ヘビの角にかんする地名起源説話が載せられている。南方は『太平記』(14世紀後半)一五以下の文献をあげ、ヘビの角や耳の記載の例を示した。現在でもなお、甲羅をへたヘビに耳が生えるという伝承が残っていることは、松山義雄が語るとおりである(『山国の動物たち』『続々狩りの語部』)。 ヘビにおける角と耳は、中国の竜イメージの渡来と普及を示唆する。森豊『龍』および中野美代子『中国の妖怪』によると、殷の時代(紀元前1600年ごろ─前1027年)にすでに、竜の観念は成立していた。そして紀元前四世紀ごろの中山王陪葬墓からは、角または耳つきの竜の造形が出土している(中野同書)。〉