古道から歴史を紐解く!江戸時代に造られた名古屋の「飯田街道」を巡る旅
ミキの昴生と亜生がMCを務める、全国の道に特化したバラエティ番組『道との遭遇』。今回は、歴史の痕跡を残す"古道"を愛してやまない道マニア歴25年の荻窪圭さんが、愛知県名古屋市にある「飯田街道」を巡ります。 【動画】「なんとか残してほしい」飯田街道の道筋を残すための驚きの方法は【7分38秒~】
名古屋と長野を結ぶ「飯田街道」を辿る
荻窪さんと一緒に旅をするのは、アイドルグループ・SKE48の倉島杏実(くらしまあみ)さん。 (道マニア・荻窪圭さん) 「名古屋は東と西、さらに岐阜・長野の三方を結ぶ交通の要衝。なおかつ、伊勢湾ともつながっていて、あらゆる方向に街道があった。今回は名古屋に残る古道の痕跡を辿りつつ、その道の歴史や何に使われたのかなどを探っていきたい」 江戸時代以前に造られ、今はあまり使われていない道"古道"。日本の中心に位置する交通の要衝と言われた名古屋には、城から延びていた江戸時代の古道の痕跡が今も多く残っていると言います。 二人が訪れたのは、東区にある中部電力 MIRAI TOWER(旧・名古屋テレビ塔)の近く。久屋大通(ひさやおおどおり)から南東に向かって斜めに続く道へ進みます。 (道マニア・荻窪圭さん) 「ここはかつての『飯田(いいだ)街道』。長野からは山のものを名古屋に運んだり、海が近い熱田から長野に塩を運んだり。人の行き来にもよく使われていた」 江戸時代、名古屋城の完成から間も無く徳川家康によって造られた「飯田街道」は、名古屋と信州(現在の長野県)を結び、物資の交換に大きな役割を担った道でした。 (道マニア・荻窪圭さん) 「城下町はきれいな十字路だが、町を外れると最短距離で行ける道を造るので、十字路ではなくなる」 碁盤目状の道路の中で、一際目立つ斜めに延びた道。さらに、坂になっていて下っている特徴も、古道を示す重要なサインなのだそう。空港線を横断すると、お寺が点在するエリアに。 (道マニア・荻窪圭さん) 「この辺りは江戸時代、お寺を集めた"寺町"だった。清洲城から名古屋城を中心にするときに、清州の人や寺を全部名古屋城下に移動させた」 そのお寺を目当てに、当時は多くの参拝客で賑わっていたそう。しかし、戦後の復興や都市化で大きな道路が誕生していく中、徐々に人の行き来は減っていったと言います。 2人はさらに古道を辿り、千種区の吹上駅(ふきあげえき)を通過。進み続けると、道の分岐点には古道のサインであるお地蔵さんが。よく見ると、横には昔の文字で道の名前が書かれています。 近くの住民によると、「飯田街道」は終戦直後まで馬車が走っており、かつては馬による輸送が頻繁に行われることから、「中馬街道(ちゅうまかいどう)」とも呼ばれていたそう。物流による経済の促進に大きく貢献。さらに明治時代には、街道上に愛知馬車鉄道が開通。その後は路面電車へと姿を変え、人々の生活を支え続けました。