新宿で「クリスマスツリーに仕込まれた爆弾」が爆発し、12人が負傷した「無差別テロ事件」とは? 民間人を巻き込み、支持を失った「過激派」の暗黒史
■風呂場にコンクリートブロックを積み上げ、拳銃を製造 「新宿クリスマスツリー爆弾事件」に話を戻す。爆弾が仕掛けられたクリスマスツリーは台湾製で、西武デパート、西友ストアーで流通したものだと判明した。また、警察は、派出所の周辺での不審人物の目撃情報を掴むが、犯人特定の糸口にはならなかった。 「土田邸ピース缶爆弾事件」や「新宿クリスマスツリー爆弾事件」は警察を狙った犯行であることは明白だったが、とくに後者は、誰もが道を歩いているだけで巻き込まれる可能性がある性質の犯行であり、深刻な社会不安を引き起こした。すぐに警視庁内に「極左暴力取締本部」が設置され、800人の捜査員の専従が決まる。それはまさに総力戦だった。 ところが、捜査は長期化した。主犯格が逮捕されたのは約8年後の1980年3月のことだった。まず、埼玉県川越市に住むKという男が身柄を拘束された。当時32歳のKは教育関係の企業に勤務し、川越の賃貸アパートから千葉県の営業所へ通勤しながら善良な市民を装って生活していた。 しかし、アパートの浴室には防音のためかコンクリートブロックが積み上げられ、そこで密かに改造拳銃の製造が行われていた。Kはこの場所をあたかも拳銃製造工場のように使っていたのである。 ■警察を狙い爆破テロを繰り返していた「黒ヘルグループ」 Kは「クリスマスツリー爆破事件」の犯人としてすでに警察がマークしていた「黒ヘルグループ」の一員だった。逮捕後、Kは当該事件への関与を認めた。 ここでいう黒ヘルグループとは、もともと特定のセクトや組織に属さず、黒いヘルメットをかぶりデモや抗議活動に参加していた活動家たちが、1971年頃に集団化したものである。 同年8月、黒ヘルグループは爆弾を用いた武力闘争を計画し、東北地方の山間部で鉄パイプ爆弾の製造や爆破訓練を実施した。同訓練には、連合赤軍から派遣されたメンバーも参加していた。 同年9月には杉並署警察署高円寺駅前派出所に爆発物を仕掛けるなど警察施設を狙った攻撃を開始。その後も数ヶ月間にわたり、主に警察を標的とした爆破テロを繰り返していった。そして、「新宿クリスマスツリー爆弾事件」は、初めて直接的な被害者を出し、もっとも社会に衝撃を与えた犯行だった。 続く3月26日には、黒ヘルグループのリーダーで、爆弾製造に関与した別件で1972年から指名手配されていたTが逮捕された。当時36歳のTは山口県で同じグループのYという女と一緒にひっそりと暮らしていた。Yが飲食店で働いて生計を支えていたという。 グループの指導的立場にあったKと、爆弾製造を担ったTが「新宿クリスマスツリー爆弾事件」の主犯格といえた。同じ月、事件に関与したTの弟であるMも逮捕された。 ■テロで「市民の憎悪」を買い、新左翼運動は衰退へ 黒ヘルグループは、1972年以降、大規模なテロ計画を企てていた。だが、警察の捜査網が張り巡らされる中で、いずれも実行には至らなかった。裁判ではTには無期懲役、他の共犯者に懲役10年~20年の判決が言い渡された。 黒ヘルグループの活動は短期間で終わったものの、中核派による「渋谷暴動事件」(1971年)や、連合赤軍の「あさま山荘事件」(1972年)、「東アジア反日武装戦線」の「連続企業爆破事件」(1974年~1975年)、「日本赤軍」の「テルアビブ空港乱射事件」(1972年)、「ドバイ日航機ハイジャック事件」(1973年)、「ダッカ日航機ハイジャック事件」(1977年)など、国内外で過激派による大規模なテロ事件が相次ぎ、多くの命が失われた。 それぞれの組織には思想や方法論の違いがあったものの、市民の恐怖と憎悪を買った一連の事件は、新左翼運動の正当性を喪失させ、衰退の道へと追いやる転換点となった。
ミゾロギ・ダイスケ