新宿で「クリスマスツリーに仕込まれた爆弾」が爆発し、12人が負傷した「無差別テロ事件」とは? 民間人を巻き込み、支持を失った「過激派」の暗黒史
1971年の12月24日、新宿・伊勢丹前の交差点で悲劇は起きた。クリスマスツリーに仕込まれた爆弾が爆発したのである。これにより12名が重軽傷を負い、繁華街はパニックに陥った。この「新宿クリスマスツリー爆弾事件」は思想犯によるもので、犯人は暴力的な新左翼集団に属していた。“過激派”と呼ばれたこれらの勢力は何を目指し、なぜ大規模テロ事件を起こすようになったのか、その経緯を改めて振り返りたい。 ■伊勢丹前の交差点で響いた、恐ろしい爆音 今から53年前、東京・新宿の繁華街で起きた爆弾テロ事件は、華やかなクリスマスイブを血塗られた悲劇の日に変えた。爆弾テロという予期せぬ恐怖が発生したのだ。1971年12月24日、この事件は新左翼運動が無差別テロに踏み込み、多くの市民を恐怖に陥れた衝撃的な出来事として知られている。 当日の東京は晴れ、18時の時点で気温は平年並みの7.9度。家路を急ぐ人々や、聖夜の街を楽しもうとする人々が行き交い、百貨店「伊勢丹」に面する新宿三丁目の交差点付近は活気に満ちていた。 19時すぎ、明治通りを挟み伊勢丹の向かいにある警視庁四谷警察署追分派出所の近くで甘栗を販売していた男性が、路上に紙袋が放置されていることを派出所に知らせた。これを受けて若いI巡査は、紙袋の中に高さ50cmほどの樅の木を模造したクリスマスツリーが入っているのを確認。クリスマスイブの忘れ物としては特に違和感のないものだが、紙袋を持ち上げると妙に重かった。 I巡査は袋を一旦その場に置き、上司のO巡査長に報告した。50代のO巡査長は「爆弾かもしれない」と警戒しつつ紙袋を持ち上げた。その瞬間、耳をつんざく轟音とともに紙袋が爆発した! ■「聖夜の新宿」が修羅場と化した瞬間 衝撃波は付近一帯に及び、新宿通りを挟んだ向かいのビルの窓ガラスをも粉砕した。現場の最寄りのビルは、1階のショーウィンドウの強化ガラスはおろか4階までの窓ガラスが割れ、ネオンサインも破壊された。木造の円筒形派出所は、窓ガラスが粉々になり、ドアが外れ、全体が大きく傾いた。 周囲にはガラス片や金属片が散乱し、血だらけになった人々がうずくまり、パニック状態に陥った人々が悲鳴を上げながら逃げ惑った。I巡査は頭部などに1カ月の重症。もっとも大きなダメージを受けたのはクリスマスツリー爆弾を持ち上げたO巡査長だ。左足の膝から下が吹き飛び、左手の指4本と右手の指1本を欠損する。顔面、眼球を含む全身に金属片が突き刺さり、右目の失明は避けられなかった。 他にも計10名が負傷。駆けつけた救急隊員たちは、現場の凄惨な光景に息をのんだ。事件は、事実上の無差別テロだった。 ■東京を揺るがした連続爆破テロ事件 この「新宿クリスマスツリー爆弾事件」については、発生直後から、警察もメディアも特定の層による犯行だとほぼ断定していた。 「過激派の犯行 付近のビルも被害」(朝日新聞:12月25日付朝刊) 「目標失った“殺人集団” 極左暴力取締本部設置へ」(毎日新聞:12月25日付朝刊) 「連合赤軍の一味? ツリー爆破本格捜査」(読売新聞:12月25日付夕刊) 現在は、 “無敵の人”と呼ばれる社会的孤立層による自暴自棄的な無差別テロが目立つが、70年代は“過激派”と呼ばれた思想犯による組織的かつ計画的なものが多かった。 とくに1971年は、過激派による犯行だと思われる爆破テロが急増した年である。小規模なものであったり、未遂に終わったりすることが多かったが、6月15日の「明治公園爆弾事件」では37名の機動隊員が重軽傷を負い、12月18日に発生した「土田邸ピース缶爆弾事件」ではついに死者が出てしまった。 東京都豊島区にある警視庁の土田國保警務部長の自宅に、タバコの銘柄「ピース」の缶に仕掛けられた爆弾が届き、爆破によって土田部長の妻が爆死、さらに13歳の四男が重傷を負った。警察は犯人を特定するには至らなかったが、ピース缶爆弾は過激派特有のものであることから、そうした組織の犯行である可能性が高いと考えた(*)。 続いて起きた「新宿クリスマスツリー爆弾事件」についても、当初から警察は過激派による犯行を強く疑った。なお、読売新聞が名前を挙げている「連合赤軍」はこの年に結成されており、警察から危険視されていた。 *翌年、被疑者が逮捕されたが裁判で無罪に。未解決のまま公訴時効が成立 ■“新左翼”が無差別テロに走るまでの背景 ここで、過激派が生まれた背景について触れておきたい。1950年代後半、日本の既成左翼は議会を通じた平和的な社会変革を目指していた。しかし、この穏健なアプローチに対し、反体制志向を持つ一部の若者や学生が不満を抱き、既成左翼の方針に反発。“新左翼”としてより急進的な革命路線を模索し、先鋭化していった。 50年代の終わりから1960年にかけて、60年代の終わりから1970年にかけて、2度展開された「日米安全保障条約」の改定や自動延長に反対する活動、いわゆる「安保闘争」は、新左翼運動がさらに先鋭化する契機となった。「安保闘争」の過程で一部の勢力は暴力的な手段を用いていたが、目的を達成できなかったことで、それまで以上に過激な手段を追求する動きが加速した。 また、1968年から1969年にかけて盛り上がった大学改革や社会変革を求めた全共闘運動のなかでも、暴力が肯定される面があった。さらに同時期、ベトナム戦争反対運動やキューバ革命、パレスチナ解放運動など国際的な革命運動の影響も受け、新左翼の一部は武装闘争やテロリズムを正当化する方向へと進んでいった。つまり、暴力は理想社会を実現するための不可欠な手段だと確信するに至ったのである。 上記のような機運が生んだ象徴的な事件が、1970年3月に発生した「よど号ハイジャック事件」である。この事件では、「共産主義者同盟赤軍派」のメンバーが日本航空の旅客機「よど号」をハイジャックし、人質をとって北朝鮮への亡命を試みた。そこでは人質が傷つけられることはなかったが、以後、過激派と称された新左翼運動の急進勢力は無差別テロをも厭わない路線を邁進していった。