「憲法第九条は日本人がつくった」…すでに否定された「神話」が今でも支持されるワケ
「平和ナショナリズム」としての憲法第九条
十七条憲法が憲法第九条の起源だとする田畑と深瀬の主張は、今日では支持されていません。学問的に見ても二人の主張は荒唐無稽なものです。田畑や深瀬の思想を高く評価する研究や書籍でも、これらの議論について言及されることはまずありません。そもそも、こうした主張がなされたこと自体ほとんど知られていないのです。 興味深いのは、田畑にしろ深瀬にしろ、憲法第九条が日本古来の平和思想と結びついているのだから、憲法第九条は「押しつけ」ではないと主張した点です。これは「平和ナショナリズム」とでもいうべき発想に基づいているといえます。つまり、憲法第九条は日本という国だったからこそ実現したのであり、これを誇りとして平和国家日本を世界に示すべきであるという、日本を特別視する考え方が二人の考えからうかがえます。 日本を特別視する考え方を「日本スゴイ」と表現することがあります。いってしまえば、過剰な日本評価を揶揄する表現なのですが、主に右派層・保守層を批判する際に用いられます。しかし、田畑や深瀬の議論は「憲法第九条スゴイ」、ひいてはその平和的思想の源流を持つ「日本スゴイ」という発想に基づいていたといえるでしょう。愛国心やナショナリズムに対して、護憲派は批判的であると考えられがちですが、当時の憲法学者たちは積極的にナショナリズムを受容して、憲法の正当性を訴えていたのです。 こうした考え方の思想的意義や背景については、今後さらに検討する必要があります。「平和ナショナリズム」とでもいうべき憲法第九条とそれを持つ日本を特別視する思想は、今日の護憲派も「憲法第九条は世界の宝」というような謳い文句を掲げている様子を見ると、今なお根付いているようにも思われます。
幣原発案説と伝記
今日でも一部の研究者やメディアや論者によって、幣原発案説は根強く支持されています。彼らの議論を見ていると、第二次安倍晋三内閣の発足以後、改憲議論が加速する中で、それに対する対抗言説として主張されていたことが分かります。彼らの議論のほとんどは、すでに否定された史料を用いていたり、幣原が平和思想の持ち主であったという誤った立場に基づいています。 幣原発案説に決定的な影響を与えているのが伝記です。幣原の伝記は1955年に幣原平和財団という財団から発行されました。伝記の目的は幣原の事績を顕彰することにありました。敗戦後に発刊されたこともあってか、幣原の理想主義的な言説が多く引用されました。主に引用される言説は外相就任時の記者会見、議会での演説、大学での講演です。これらの中で幣原は対中外交協調外交の正当性や、国際協調の必要性、平和の重要性を訴えていました。 この伝記に大きな影響を受けたのが深瀬です。深瀬は自らの論文で、これらの言説を引用して幣原の平和思想について論じています。この他の幣原発案説を支持する研究の多くが、幣原を顕彰する伝記を引用して平和思想を論じています。また、深瀬の議論も複数の研究者によって参照されています。 しかし、当然のことですが伝記によって恣意的に引用された言説を論拠とするのは、学問的には正確性を欠いた議論です。注意すべきは、幣原によるこれらの言説は表向きのメディアパフォーマンス的要素を含めた内容であり、実際の外交指導とはギャップがありました。 先にも述べたとおり、実際の幣原は国益を重視する現実主義的な外交指導を展開していたのです。たとえば、対中不干渉外交を表向きは掲げておきながら、実際は陸軍による中国への政治的介入をあえて黙認していました。このように幣原は表向きの立場と実際の外交指導における立場を巧みに使い分けており、したたかに立ち振る舞っていたのです。 幣原は外交のプロでしたから、第一次世界大戦後の国際協調的な風潮を受けて、表向きには理想主義的な外交思想を支持していたものの、それが有効に機能するとは限らないことを理解していたのです。幣原発案説を支持する人びとは、実際の幣原ではなく伝記が描く「平和主義者」としての幣原のイメージをそのまま受容してしまったのです。ここに、幣原発案説の重大な問題点の一つがあるといえるでしょう。