「憲法第九条は日本人がつくった」…すでに否定された「神話」が今でも支持されるワケ
なにが問題なのか
憲法第九条を発案したのはマッカーサー以外にはありえません。マッカーサーはアメリカに帰国すると、公の場で幣原による発案だったと証言しますが、この証言には数々の疑義が呈されています。マッカーサーは憲法改正には日本側の自主性があったと述べることで、自らの占領政策の正当性と公平性を訴える狙いがあったものと思われます。 にもかかわらず、現在でも幣原発案説は生き延びている――それはいったいなぜなのか。以下では、以前発表した論文「”平和主義者”幣原喜重郎の誕生」(『Antitled』Vol4、2024年)に基づいて、幣原発案説が誰によって支持されてきたのか、そして今日でも根強く支持される背景を見ていきます。
憲法学者と幣原発案説~田端忍と深瀬忠
幣原発案説を支持したのは戦後の憲法学者たちでした。彼らは、戦争の惨禍を目の当たりにし、平和主義こそが日本の進むべき道であると考えました。そのため、憲法学者として憲法第九条を強く支持したのです。ここでは代表的な人物として田畑忍(1902~1994)と深瀬忠一(1927~2015)を挙げておきたいと思います。 二人とも今日では名前を聞くことが少なくなりましたが、日本の平和主義を熱心に唱えた人たちであり、当時はメディアにも寄稿したり講演活動を行うなど、広く知られていた研究者でした。 田畑は同志社大学の教員であり、日本社会党の指導者となった土井たか子の学問的師でもありました。田畑の主な主張は、日本は非武装永世中立国となるべきであるというものでした。 田畑は幣原発案説を支持していました。その意見を要約すると次のようになります。 憲法第九条は「押しつけ」であると改憲派は主張しているが事実は異なっている。当時の内閣総理大臣である幣原喜重郎が発案したのであり、日本人によって発案されたのであるから、改憲派の主張するような「押しつけ」ではない。憲法第九条を日本は守るべきであると。 さらに田畑は、憲法第九条は日本古来の平和思想に起源があると主張しています。具体的には十七条憲法の「和を以て貴しとなす」が平和思想の象徴であり、脈々と受け継がれてきたといいます。ここで興味深いのは田畑が平和主義者として列挙している人物たちです。彼は平和主義者として内村鑑三、安部磯雄にくわえて安藤昌益や坂本龍馬、石原莞爾らを挙げています。 このように田畑は決して憲法第九条につながる平和思想が舶来のものではないと主張したのです。日本には古来の平和思想が存在しており、憲法第九条はそうした平和思想の文脈にたつ幣原が発案したのであって、「押しつけ」などではないというわけです。 田畑の議論を見てきたところで次に深瀬の議論を見ていきましょう。 深瀬は北海道大学の教員であり、もともとはフランス法の研究が専門でした。しかし、自衛隊と憲法の問題が争われることとなった恵庭事件(1962年)に特別弁護人として関わったことをきっかけに、平和憲法確立のために積極的な活動を展開しました。学問的には「平和的生存権」の確立に貢献した人物として知られています。 深瀬は憲法第九条が幣原の平和思想を起源としており、条文化したのはマッカーサーであると主張しています。深瀬が重視するのが幣原の外交指導です。深瀬は幣原が戦前から武力に基づく外交を否定していたことを高く評価しています。 幣原の現役当時問題となっていた対中外交については、中国の立場を尊重する不干渉主義を堅持する協調外交を展開し、さらに軍縮会議を主導するなど、平和主義的な立場に基づいた外交政策を展開していたと述べています。深瀬の研究は、後に幣原外交の特徴を端的に言い表した研究として幣原発案説を支持する研究者たちにたびたび引用されることになります。 深瀬もまた田畑と同様に、日本古来の平和思想と憲法第九条を結びつける議論を展開しており、やはり十七条憲法を参照しています。この他にも深瀬は聖徳太子の平和思想を評価する研究や、豊臣秀吉の刀狩りと明治政府の廃刀令から武力放棄の歴史を評価する研究を発表するなど、日本史の中に平和思想や平和的取り組みの起源を見出そうとしていました。やはり深瀬もまた、憲法第九条が舶来ではなく日本由来の平和思想に基づいていることを証明することで、その正当性が確立すると考えていたのでしょう。