「憲法第九条は日本人がつくった」…すでに否定された「神話」が今でも支持されるワケ
根拠となる「平野文書」の虚妄
たとえば、よく知られている史料として「平野文書」というものがあります。これは平野三郎という、衆議院議員や岐阜県知事を務めた人物が残した文書です。厳密に言えば、「平野文書」にはいくつかバリエーションがあるのですが、ここでは憲法調査会に提出したものについて述べます。 「平野文書」の概要を説明すると、1951年(幣原が亡くなる1年前)に平野が幣原から憲法第九条成立に至る経緯を聞き取ったとされるものです。インターネットで検索すれば全文を見ることができます。今日でも幣原発案説を支持する人々は「平野文書」を参照していますが、この史料はすでに「怪文書」あるいは「偽書」であるとして、複数の研究者によって否定されています。そこで、他の研究者による「平野文書」に対する批判を紹介します。 「平野文書」によると、幣原は「日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか」述べたといいます。これは一見すると幣原が自らの平和思想を語ったかのように見える一文ですが、注意すべきは時系列です。 これは文面を見ると1960年に改定された日米安保条約を意識した内容であることがうかがわれますが、聞き取りに答えた1951年当時の幣原がここまで予見できたとは考えられないのです。「平野文書」が公になったのは1964年のことですから、平野が1960年以降に記したものであるとすればつじつまが合います(中村2022)。 さらに、幣原は1950年にアメリカ側へ軍の日本駐留継続を働きかけていた事実も分かっています(服部2017、種稲2024)。この事実は「平野文書」における「軍事一体化」を危惧する幣原の姿勢とは真逆のものです。 このように、「平野文書」では幣原の外交思想とかけ離れた記述が多く見られます。 「平野文書」によると、幣原は「我国の自衛は徹頭徹尾正義の力でなければならないと思う。その正義とは日本だけの主観的な独断ではなく、世界の公平な与論に依って裏付けされたものでなければならない」、日本が侵略されたとしても他の国が「黙ってはいない」、「要するにこれからは世界的視野に立った外交の力に依て我国の安全を護るべきで、だからこそ死中に活があるという訳だ」と述べたそうです。 ここからは幣原が国際世論による平和維持に期待していたと読み取れますが、実際の幣原は各国家は自らの利益のために動くというリアリズムに基づく考えであり、集団安全保障の実効性には終生懐疑的であったことが明らかにされています(種稲2024)。 国際連盟ができた時などは「利害関係国相互の直接交渉によらず、こんな円卓会議で我が運命を決せられるのは迷惑至極だ」と周囲に漏らしたほど国際的な意思決定機関には否定的だったのです(幣原平和財団1955)。こうした国際連盟への否定的な意見は戦後も変わることがありませんでした(種稲2024)。そのような幣原が「世界の公平な世論」に日本の命運を託そうとしたとは到底考えられません。 他にも「平野文書」に対しては数々の批判があります。ここで確認しておきたいのは幣原発案説を証明するとされた史料の信憑性が疑わしいということです。