マン・レイの名言「忘れ去られてしまった着想は、…」【本と名言365】
これまでになかった手法で新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。ニューヨーク・ダダやシュルレアリスムなど20世紀初頭の芸術運動を推進した芸術家、マン・レイ。独自に編み出した手法で多彩な作品を生み出したアーティストが語る、真に価値のあるアイデアとは。 【フォトギャラリーを見る】 忘れ去られてしまった着想は、実現に価しない 写真家、画家、彫刻家……マン・レイの肩書きをひとつに収めることは到底できない。ある時は技術者のごとく光学を究め、またある時には、ウィットに富んだ絵画やオブジェを生み出す……。「わたしは、事実、もう一人のレオナルド・ダ・ヴィンチであったのだ」と矜持するのも頷けるほど、マン・レイは人並外れた好奇心とユーモア、そしてアイデアに満ち溢れたアーティストだった。 幼いころからすでに型破りなアーティストとしての片鱗を見せていたマン・レイ。3歳の時にはすでに筆を握り、高校でデッサンと機械製図を学ぶと、その才能を認められニューヨーク大学建築科への推薦を受ける。しかし、直前で入学を辞退し、デザイン業で生計を立てる傍ら、独学で絵画制作することを決意。20代半ばには個展を開催し、当時最前線を走っていたマルセル・デュシャンらと親交を深め、一気に美術界に名を響き渡らせることになる。 商業写真家としても活躍し、とりわけ写真家としての印象が強いマン・レイだが、手がけた作品は絵画、彫刻、映画とさまざま。既製品を用いた立体作品や、カメラを使わずに印画紙に物を直接置いて感光させた写真作品など、当時の前衛芸術に与しながら独自の表現を追い求めていった。 「着想に事欠いていたわけではなかったが、その多くはひとまずわきに置いておいたのだった。そして三度も四度も繰り返して浮かんでくる着想があれば、そのときはじめて、この着想でなにかやってみる価値があるなと考えたのである。――忘れ去られてしまった着想は、実現に価しないからだった」 自伝のなかでこう振り返ったマン・レイ。泉のごとく湧き出るアイデアをじっくり温め、機が熟すのを待つ。ただ闇雲につくるのではなく、自身のなかでアイデアを洗練する力こそが、マン・レイにとって新しい表現を切り拓く秘訣だったのだろう。
マン・レイ
1890年、アメリカ・フィラデルフィア生まれ。美術家。本名、エヌマエル・ラディンスキー。1910年代前半からニューヨークで美術家活動を始め、1921年にパリへ移住。著名人のポートレイトを数多く撮影し、モード写真の礎を築いた商業写真家としても成功する。第二次世界大戦勃発後は、アメリカへ一時避難し、絵画を中心に制作。1951年にパリへ戻り、晩年まで制作を続ける。1976年、86歳で逝去。
photo_Yuki Sonoyama text_Kentaro Wada illustration_Yoshifumi ...