昇進は遅れたが歌人として名を残した藤原頼宗
なお、この頃に、道長の娘で中宮・藤原彰子のもとで働いていたとする記録がある(『小右記』)。子に対する父の愛情に温度差があったのかもしれないが、倫子の子と明子の子とは、それぞれ交流があったようだ。 検非違使別当、按察使、右衛門督、春宮大夫、右大将など、さまざまな務めを経験した後、1047(永承2)年に内大臣に就任。長らく右大臣を務めた藤原実資(さねすけ)が前年に90歳で没したことに伴う人事だった。実資は実に25年もの間、右大臣を務めており、なかなか割って入る隙がなかったらしい。 絶対的な権力者・道長の息子でありながら、頼宗がその先の昇進を阻まれたのは、実資のみならず、異母兄弟の頼通と教通、つまり嫡妻の子どもたちが長年、朝廷の要職を独占していたことも無関係とはいえない。 それでも、1058(天喜6)年に従一位に叙せられた。念願の右大臣に昇進したのは1060(天喜8)年のことだった。 栄達に酔いしれたのも束の間、1065(康平8)年1月に病のため出家。翌2月に73歳でこの世を去った。 娘の延子(のぶこ/えんし)を後朱雀(ごすざく)天皇に、昭子(あきこ/しょうし)を後三条(ごさんじょう)天皇に入内させているが、いずれも皇子を産むことがなく、天皇の外戚となることは最後までかなわなかった。 一方で歌人として豊かな才能を持ち合わせ、藤原公任(きんとう)に次ぐとまでの評価を得ている。 紀貫之(きのつらゆき)、平兼盛(たいらのかねもり)に並ぶとの評価もあるのは、『後拾遺和歌集』などの勅撰集に約40首が選ばれていることからもうかがえる。
小野 雅彦