「気立ては良くなく、品行も猥ら」と江戸の男に評された「ある地域の女」の実態……3人の男を手玉にとった16歳の少女の場合
男たちは刎首獄門や陰茎切の刑、「みつ」は…
なんと、三郎兵衛と「みつ」の密通を長右衛門に注進した八左衛門もまた、前年九月から「みつ」と密通していたのである。 これが長右衛門の知るところとなり、長右衛門は事情を確認したいと平右衛門、八左衛門に申し入れた。二人して「みつ」の密通を長右衛門に注進したことからもわかるように、この二人はかねてから入魂(じっこん)の仲だった。二人で申し合わせた上、八左衛門がまだ若いことから平右衛門ひとりが長右衛門方を訪れた。そこで長右衛門が平右衛門と喧嘩になり平右衛門に怪我を負わせたのである。 この傷害事件がきっかけとして密通の件が明らかになり、平右衛門は「みつ」と通じてはいなかったが長右衛門とともに喧嘩両成敗として刎首獄門、八左衛門は懲らしめとして牢舎で陰茎切〈いんけいぎり〉、「みつ」も牢舎で劓刑〈ぎけい〉(鼻そぎ)に処された。三郎兵衛も警〈いまし〉めとして一ヵ月程度の過怠牢(敲などの代わりに入牢させた刑罰)となっている(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)一九頁)。 今日の日本にはない、想像を絶する身体刑。今日と明らかに異なる社会が江戸時代であった。この事例で関係者がみな重罰に処せられたのは、これがたんなる傷害事件ではなく、当時の社会で大罪とされた不義密通だったからである。 だが、大岡清相の言葉にも見られるように、極端な男尊女卑社会であった江戸時代だが、それでも極刑に処されることを知りながら、男を手玉に取る女性が存在したことを教えてくれる事例でもある。 *
松尾 晋一(長崎県立大学教授)