「気立ては良くなく、品行も猥ら」と江戸の男に評された「ある地域の女」の実態……3人の男を手玉にとった16歳の少女の場合
不倫スキャンダルで政治家が失脚し芸能人が活動を自粛する現代と同様、江戸時代も色恋沙汰は人の人生を狂わせていた。 【画像】1825年の出島 現存する長崎奉行所の裁きの記録「犯科帳」には、一人の長崎の女に翻弄された3人の男たちが「陰茎切」などの刑罰を受けるに至った事件が記録されている。 【本記事は、松尾晋一『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』より抜粋・編集したものです。】
「身持猥はハしく、夫をも敬はハず…」
酒と同様、人生を狂わすものに男女の関係がある。現代社会でも同じだが、今日とは異なる身分制、また貞操観念の違いもあり、我々には考えられないような事件がたびたび起きていた。 正徳五(1715)年3月に長崎奉行・大岡清相が長崎市中に申し渡した「條々」には、長崎の女性像がつぎのように記されている。 「だいたい長崎の風俗として女の気立ては良くなく、品行も猥らで夫を敬わない。甚だしいのは夫に悪事をすすめ、悪事によって少しでも金銀を儲けることがあれば自分の身を飾るのみならず、挙げ句の果てにはもう用済みとして夫と夫婦の縁を切るようなことまであるそうで、不道の至り(人の道に外れること)その科は軽くはない。これから左様の者がいたならば必ず罰する(惣而〈そうじて〉当地之風俗として女の心だてよろしからず、身持猥がハしく、夫をも敬まハず、甚しきハ夫ニ悪事をすすめ、其悪事ニよりて少も金銀儲け出し候得バ、自分之身を飾り、其上ニ而ハ夫婦之縁を切候様之事有之由、甚以不道之至其科軽からず候、向後左様之者於有之は、急度可為曲事候事)」(『長崎代官所関係史料 金井八郎翁備考録 一』一九二頁)。 長崎の女性の言われ方に驚く。江戸から派遣された為政者の目に長崎の女性はこう見えていたのかもしれないが、実際はどうだったのだろうか。女性が関係したいくつかの事例から確認していくことにしよう。
16歳の少女「みつ」に狂った3人の男たち
江戸時代には、夫婦関係以外のいわゆる「自由恋愛」は認められておらず、そのような関係は「不義密通」として、それだけでも処罰の対象とされていた。以下はそのような時代における、ある意味において悲劇とも言うべき事例である。 寛文一二(1672)年閏六月一七日の晩、本鍛冶屋町の長右衛門(29歳)が平右衛門(32歳)と喧嘩して怪我を負わせた。これだけだと単なる傷害事件に過ぎないが、長右衛門と平右衛門の二人は刎首〈ふんしゅ〉(首をはねる刑罰)獄門となった。なぜこうした重罰になったのか。 取り調べによると、喧嘩になるまでにはつぎのような経緯があった。長右衛門は、当年16の「みつ」という少女と、彼女が13歳のころから密通していた。しかし事件の前年の三月ごろ、平右衛門と同町在住の八左衛門(19歳)から、「みつ」は長右衛門を密夫としながら並行して江戸町在住の三郎兵衛(22歳)とも密通していると知らされた。 そのため長右衛門は三郎兵衛に「みつ」が自分と密通していることを伝え、彼女と交際しないようにさせた上で、自身も今後は「みつ」とは会わないと「みつ」の親・熊十左衛門に伝えた。 これでこの話が収まっていれば長右衛門の判断は賢明だったと言ってよいだろう。だが、この話には、続きがある。