「孫を皇太子にした道長」あまりに強引すぎる策略。皇太子になるはずだった敦康親王の悲劇。
■次の皇太子を巡る争い 次の皇太子は敦康親王か、あるいは、敦成親王か――。 寛弘8(1011)年5月22日、彰子のもとに渡った日に一条天皇が病に倒れると、譲位後について、いよいよ決めなければならなくなった。 一条天皇の次に天皇になるのは皇太子である居貞親王だとして、さらにその次に天皇になる皇太子を決めなければならない。 順番でいけば、第1皇子である敦康親王だ。一条天皇も亡き定子との子、敦康親王のほうを跡継ぎにしたがったようだ。スムーズに決まりそうなものだが、道長は行成を通じて、敦成親王を立太子すべきだと提言している。
理屈としては、結局のところ、敦康を皇太子に据えたところで後ろ盾となる者がいない。行成は「皇統を継ぐ者は、外戚が朝廷の重臣かどうか」だと強調。敦康のことを考えると、周囲の支援も十分ではないなかで皇太子にするよりも、年給などの待遇面で優遇したほうが本人のためだとした。 6月13日、一条天皇が譲位をすると、皇太子の居貞親王は三条天皇として即位。同時に、敦成親王のほうが、立太子することになった。 第1皇子を押しのけて、第2皇子の敦成親王を皇太子にすることに成功した道長。強引ではあるが、なにしろ父の兼家は自分の孫を天皇にするために、花山天皇をだまして出家させるということまでやってのけている。
■目的のためにあらゆる手を講じる道長 もし、花山天皇がたくらみに気づけば、一転して一族の運命が急落するような、大博打に出て勝利しているのだ。 そんな父の背中を見ている道長からすれば、目的のために、あらゆる手を講じることに躊躇はなかったに違いない。あとは、頃合を見計らって、三条天皇を退位に追い込むのみ。道長が容赦なかったことは言うまでもないだろう。 【参考文献】 山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫) 『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫) 倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館) 源顕兼編、伊東玉美訳『古事談』 (ちくま学芸文庫) 桑原博史解説『新潮日本古典集成〈新装版〉 無名草子』 (新潮社) 今井源衛『紫式部』(吉川弘文館) 倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書) 関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房) 倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房) 真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
真山 知幸 :著述家