「孫を皇太子にした道長」あまりに強引すぎる策略。皇太子になるはずだった敦康親王の悲劇。
■伊周が暴挙に出た真偽とは? それだけに彰子が一条天皇の子を身ごもり、無事に敦成親王を出産したときには、その喜びはひとしおだったことだろう。 生後50日目を祝う「五十日(いか)のお祝い」が寛弘5(1008)年11月に執り行われると、道長は大はしゃぎ。妻の倫子が呆れて退出するほどだった。 道長からすれば、自ら大喜びして、お祝いムード一色にすることで「当然、自分の孫である皇太子になるべきだ」という空気を作ろうしたのではないだろうか。意識したのは、言うまでもなく、第1皇子の敦康親王である。
そう考えれば、のちの藤原伊周の異常な行動も理解できる。伊周は、道長の兄・道隆の息子で、道長にとっては甥にあたる。伊周からすれば、敦康親王は、亡き妹の定子が忘れ形見として残した、一条天皇の第1皇子だ。皇位継承者になるのは、当然だという思いがあった。 このまま道長にしてやられるわけにはいかない。そんな焦りからだろう。道長が浮かれた「五十日(いか)のお祝い」から約50日後、寛弘5(1008)年12月20日に、今度は敦成親王の生後100日を祝う「百日(ももか)の儀」が開かれた。
藤原行成が公卿たちの詠んだ歌に序題をつけようとすると、伊周はやおら行成から筆をとりあげて「第二皇子百日の嘉辰……」と書き始めた。敦成親王が一条天皇にとって2人目の皇子だ、と強調することで、第1皇子である敦康親王の存在を訴えるパフォーマンスを行ったのだ。 道長は『御堂関白記』に「人々、相寄(あや)しむ」と不快感をあらわにしたが、道長が喜びを爆発させた「五十日(いか)のお祝い」を受けての、伊周なりのアンサーソングだったのではないだろうか。
■人生が暗転した敦康親王の悲劇 そんな奮闘むなしく、伊周は失速していく。寛弘6(1009)年正月30日、彰子や敦成への呪詛が発覚したのだ。 藤原行成が記した日記『権記』では、同年2月4日付で「中宮に厭術(えんじゅつ)を施した法師円能(えんのう)を捕え出した」とあるように、円能という法師が、呪詛を行ったとして捕縛された。 その翌日には、円能に呪詛を依頼したとして、伊周の叔母・高階光子と、伊周の義理の兄・源方理が逮捕。親戚が犯行に及んだことから、伊周は一条天皇から朝参停止を命じられることとなる。