「孫を皇太子にした道長」あまりに強引すぎる策略。皇太子になるはずだった敦康親王の悲劇。
NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第40回は孫を強引に皇太子に据えた道長と、定子の忘れ形見である敦康親王の悲劇を解説する。 【写真】伊周が配流された太宰府。写真は太宰府天満宮
著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。 ■簡単ではない「外戚」への道 親の偉大さを子が実感するのには、年月を要することがある。 おそらく藤原道長も、父の兼家と同じように外戚になるべく苦心して初めて、その困難さを実感したことだろう。 外戚というのは、天皇の母方の親族のこと。藤原氏北家は娘を天皇に次々に嫁がせ、男の孫が生まれたら天皇に即位させることで、外戚として権力基盤を築く……ということをやってきた。
兼家が娘の詮子を第64代天皇・円融天皇に嫁がせたように、道長も娘の彰子をわずか数え12歳で、一条天皇に入内させた。長保元(999)年11月1日のことである。 あとは彰子に子を産んでもらい、孫を皇太子にすれば、盤石だったが、簡単ではない。入内から年月を重ねても、彰子がなかなか懐妊しなかったのである。 寛弘4(1007)年8月には、道長は彰子の懐妊を祈願し、過酷な御岳詣まで行って、奈良県吉野郡にある金峯山(きんぷせん)に参詣している。
道長には急がねばならない理由があった。一条天皇と定子との間に生まれた、第1皇子・敦康親王の存在である。 順当にいけば、敦康親王が次の皇太子となる。道長が外戚になるには、彰子が子を産んだうえに、それが男の子であるだけではなく、第1皇子を押しのけて後継者にさせなければならない。 その難しさを重々理解していたからだろう。道長は、敦康親王が天皇に即位した場合にも、しっかりと備えていた。自ら敦康親王の後見人となり、娘の彰子を敦康親王の養母にさせている。