「孫を皇太子にした道長」あまりに強引すぎる策略。皇太子になるはずだった敦康親王の悲劇。
一条天皇としては、最愛の亡き定子の兄である伊周の処分は、避けたかったことだろう。だが、妻の彰子や子の敦成が呪詛され、その対象が道長にも及んだとなれば、かばうことは難しい。苦渋の決断を下したからか、同年2月18日から一条天皇は病悩し、25日には悪化したと『権記』には記されている。 このとき数え11歳だった敦康親王も不穏なムードを感じて、思うところがあったのだろう。一条天皇と同じく18日から体調を崩す。
やがて非情にも、敦康は彰子のもとから引き離される。そのうえ、彰子が一条天皇の子を再び懐妊。予定されていた敦康の元服は延期されることとなった。 同年11月25日、彰子は第3皇子となる敦良親王を出産する。敦成親王については懐妊するまでには時間がかかり、出産自体も難産だったが、敦良親王は懐妊も出産自体もスムーズだった。 道長は藤原実資にこんな思いを口にしたという。実資が残した日記『小右記』(11月25日付)に記されている。
「寅刻の頃から、出産の気配があった。今、この時に臨んで、少しの苦痛もなく、安らかに遂げられた。このたびについては、男女を考えず、ただ平安を祈るのみだった。ところが平安に遂げられた上に、また、男子が生まれたという喜びがある」 (寅剋ばかりより、其の気色気色有り。今、此の時に臨み、幾くの悩気無く、平安かに遂げ給ふ。今般に至りては男女を顧ず、只、平安を祈る。而るに平らかに遂げ給ふ上、又、男子の喜び有り)
なかなか彰子に子が生まれず、命がけで御岳詣をした日から3年足らずで、状況は大きく変わった。道長の人生が大きく好転するなかで、年が明けて寛弘7(1010)年正月28日、呪詛の発覚から約1年後に伊周は死去。 その年の7月に、延び延びになっていた敦康の元服がようやく行われることになる。敦康は三品大宰帥に任ぜられた。 元服とは、男子が一人前になったことを祝って行う儀式である。だが、敦康にとっては晴れやかさよりも、暗雲垂れ込める我が身に、ただただ不安を募らせたことだろう。