DV父に皿で殴られ、小2で祖母を「強制介護」…友達趣味なし月13万円非正規で働く30歳男性が過ごした「地獄」
門限は4時半、部活やバイトも禁止
村田さんが周りに助けを求めるたびに、父は反発して束縛をキツくして、虐待が明るみに出ないよう仕向けた。村田さんが中高生になると、門限は4時半に設定され、部活やバイトも禁止、家ではテレビやゲームなどの娯楽もすべて没収、おまけに警察や児相にも相談しないといった条件が追加された。 これらの規則を破ると、決まって父は「高校を辞めさせる」と脅してきた。この一言に村田さんは従うしかなかった。当時、村田さんには大学で遺伝子研究をしたいという目標があった。大学進学以前に、親の機嫌次第で高校を退学させられることを危惧していたのだ。 案の定、父は村田さんの大学進学を引き合いに、弱みを握るように束縛や暴行を激しくしていく。そのうえ、その頃の父は仕事を辞めたのか、日中ずっと家にいるようになる。まさに地獄としか言いようがない。 「束縛でキツかったのは、部活も入れず、テレビも自由に観られないので、同級生と会話する話題もなく、交流を絶たれてしまうことでした。中学では大半のクラスメイトが部活に入っており、そんななか門限で直帰する私は、クラスで浮いた存在として扱われるようになっていき、担任からもやる気がない生徒だと思われるようになりました。 学校の先生や同級生に話して、父にそれが伝わり暴行や束縛がきつくなるのを恐れ、家庭のことは隠していました。大学に行って独り立ちしたいという気持ちがあったので、それまでの辛抱だと言い聞かせて我慢していました」
私は「おもちゃ」だった
そして高校3年を迎え、センター試験(共通一次)が迫ってきた。晴れて父の元を離れ、大学進学ができると思った矢先、異変が起きた。学校で自分だけ、センター試験の参加通知が来ていないーーなぜか。 不審に思った村田さんは、父に問い詰めると「やっと気づいたか、バーカ」と、せせら笑いながらセンター試験を取り下げたことを報告された。事の顛末を担任に伝えると、学校でも前代未聞の事態として対策が取られたものの、最終的に大学進学は家庭の判断によるものとして匙を投げた。 「結局、父からしたら、とにかく私を管理下に縛り付けておきたかったのだと思います。なぜ父がそこまでするのか本心はわかりませんが、別に理由なんてないのだと思います。 受験を勝手に取り下げた時もそうですが、父は私がショックを受けているのを見て、その反応を楽しんでいる節がありました。父にとって、私はおもちゃというか、ストレス発散の道具でしかなかった。勉強を強いるのも、私に良い大学に進学して欲しいというわけではなく、ただ単に攻撃できる口実があればそれで良かったのだと思います」 とはいえ、大学進学を強制的に断念させられた村田さんは、高校卒業後も家庭に縛り付けられることとなった。父はずっと家で酒を飲んだりテレビを見たりして過ごし、村田さんが脱走しないよう監視し続け、機嫌が悪いと村田さんに暴行した。村田さんはその気力も失いつつあった。 隙を見て脱走する機会はあったものの、身分証やお金は没収され、行くあてもなかった。警察や役所に駆け込んでも取り合ってもらえない。そうした経験を重ねるうちに、村田さんはこの先も監獄のような空間で、一生を終えるのだと悟っていた。 光明は突然訪れる。22歳の時、たまたま父の不在を見計らって脱走した。だが、身体はもう限界だった。空腹により意識朦朧として路上に倒れてしまう。幸か不幸か、そこで通行人が救急車を呼んでくれて、入院するに至った。 当然ながら病院は、村田さんの過度な栄養失調や手ぶらなこと、家族の連絡先を教えるのを拒否するのを不審に思い、事情を聞いた。 そこで長年、父から暴行や食事制限されていることを打ち明けた。そして「家には戻りたくないから父には入院の事実を秘密にしてほしい」と懇願した。 事態の深刻さを察知した病院側は、村田さんの要望通り父には内密にして、代わりに役所で生活保護を受けるよう指示した。生活保護を受給できれば入院費も無償になるからだ。当時、村田さんは手ぶらだったため、お金も連絡する手段もなかった。急に息子がいなくなって訝しんだはずだが、その後父から捜索が入ることもなく、呆気なく父との生活は幕を閉じた。 だが、父との生活が終わっても、村田さんの窮状は解決しなかった。後編記事『「虐待の苦しみはずっと続く」父の虐待で人生のすべてを失った生活保護受給男性の絶望』へ続く。
佐藤 隼秀(ライター)