脳オルガノイドは「人」と見なせるか 若手の生命倫理学者と法学者が別々の観点から考察
「痛み」と「意識」を基準に考える
では、どういう基準を満たせば脳オルガノイドも「人」といえそうだろうか。永石准教授は、科学の研究成果によってどういう相互作用が私たちとその対象との間で生じるかが重要だという。「仮に錯覚であったとしても、人々から見てその対象を自分たちの一員(同胞)として大切にしたいと思えるかが『人』としての基準になりうる。棄損してはならない価値が人々にとって見いだせたときに、モノは単なるモノではなく大切なモノになる」と非常に哲学的な答えが返ってきた。
具体的には、ある動物が野生で生きている場合は単なる自然の一部でしかなく、実験室や食肉工場においてはそこでの利用目的で取り扱われる。だが、ペットとして飼われることで「人間にとっての同胞としての価値が生じ、まるで家族のように扱われる」こともあるといった具合だ。
永石准教授は澤井准教授の指摘について、「これから先、人々の間でのコミュニケーションにおいて『痛み』や『意識』を備えたものとして受け入れられるような脳オルガノイドが生みだされ、さらに社会に位置付けられれば、自分たちの同胞としての『人』としての価値を社会が見いだし、脳オルガノイドもまた『人』だといえる日が来るかもしれない。しかし今の段階ではヒトの臓器がそうであるように、それ自体として独立した『人』としてみられる素地が整っているわけではない」と結論づける。
つまり、永石准教授は「痛みと意識」という2点を基準として考えることを提唱している。ただし、脳波や電気信号などの外的に観察可能な現象は、ある程度複雑な電子回路でも同等なものが生じうるため、「痛み」や「意識」そのものとはいえない。まずは、「人」として取り扱うことの意義や法的な効果から考えてみるとよいのでは、と応じた。
自然・人文・社会科学の知見を総合したい
これから科学技術が発達すれば、新たな法律ができるかもしれない。その際、「新たなモノに権利を付与することでどういう社会を構想し、望ましい制度を構築するのかというビジョンが大切。権利主体の拡大を主張することで、相対する利益が害されていないかを鑑みることも重要」という。 現在、生殖医療の向上によりやむを得ず受精卵の胚を廃棄することは行われている。人体の基礎となるものにもかかわらず、だ。「堕胎や胚の廃棄が認められている現状の中で、脳オルガノイドのみを『人』とするのはバランスと安定性を欠いている」とする。