大河ドラマでは描かれない「平安時代のトイレ事情」
婚姻の夜の用足しは...
後三条天皇を祖父にもち、臣下となった源有仁(ありひと)は、17歳で故権大納言・藤原公実の娘婿となっています。彼は詩歌・管絃に秀で、光源氏のような美男であったようです。 なお、妻の実妹に白河天皇の養女となり、鳥羽天皇の中宮となった藤原璋子(待賢門院)がいます。有仁は13歳の時、伯父にあたる白河法皇の御所で元服し、猶子となった経緯があり、この結婚は白河法皇の勧めるところでもありました。 その関係からでしょうか、新妻の居所は白河法皇の大炊殿(おおいどの)となっています。新妻が有仁を迎える大炊殿の寝殿の一郭に御帳を設営し、繧繝縁(うんげんべり)の畳を三枚敷いて寝所としています。『長秋記』には「南方に沈枕(じんまくら)一双を置き跡方に大壺を置く」とあり、足もとには「大壺」(便器)が置いてありました。 また、これとは別に寝殿の廊の東間を「樋殿」に充てており、ここには大壺と「紙置台」が置いてあったのです。紙置台の存在は、白河法皇が糞ベラ(後述)ではなく紙を用いていたことを暗示しており、この時期には、上皇といった上級階層は用を足す際、紙を用いたのでしょう。
庶民の排便事情
このあたりで庶民の排便事情についても触れたいですが、これは至難の業です。彼らは、日記はおろか、物を書く術を知らず、説話や絵巻物といった間接的な史料から読みとるしかありません。 10世紀後半のこと、関白・藤原頼忠の娘で円融天皇皇后の藤原遵子は、多武峰(とうのみね)の増賀聖人(ぞうがしょうにん)を招いて剃髪し、出家を遂げました。そのとき聖人は、大声で卑猥な事を言ったため、居合わせた女房たちは、開いた口がふさがらなかったといいます。 帰りぎわに聖人は、皇后宮大夫の藤原公任(きんとう。皇后の実弟)に「年老いて風邪も重く、目下、下痢がひどく、それを押して参上いたしたが、もはや堪えきれず急ぎ退出いたす」と言って走り出し、西の対(西の建物)の南の放出の縁にしゃがみ込み、尻をまくって、容器から水をぶちまけるように下痢便をたれ流しました。その汚い音が皇后のところまで聞こえたといいます(『今昔物語集』)。 この絵画版ともいえるのが『病草紙(やまいのそうし)』(12世紀末の絵巻)の「霍乱(かくらん)の女」でしょう。縁先で四つん這いになり、庭に向かって「口より水を吐き、尻より痢をもらす」、尻を出してまさに水便の最中が描写されています。 霍乱とは、下痢・嘔吐を伴う急性胃腸炎の症状のこと(服部敏良『王朝貴族の病状診断』)。この『病草紙』に出てくる家は、庶民層で屋内にトイレの施設などはなかったであろうことから、排泄は外で行なったと考えられます。 平安中期の歌人として知られる橘季通(たちばなのすえみち。父は清少納言の夫の一人とされる則光)が高貴な家に仕える女房と深い仲になり、夜ごとに彼女のもとへ通っていました。それを知ったその家の侍どもは「この家の者でもない者がわが物顔に出入りするとはけしからん、懲らしめてやろう」と警備を固め、季通が女房の許から朝方に帰るのを待っていました。これに女房が気づいたものの、為す術がありません。 そこで季通に従っていた小舎人童(こどねりわらわ。貴人らに召し使われた童)の機転が物をいうこととなります。いったん帰り、迎えに来て状況を察知した彼は、たまたま「大路ニ屎(くそ)マリ居テ候」つまり、大路に屈んで大便をしていたこの家に仕える女童を捕まえ、衣服を引き剝ぎ脅したのです。すると、この女童の悲鳴を聞いた侍らが飛び出し、その隙に季通は屋敷を抜け出せました(『今昔物語集』)。 かなり身分の高そうな家なので邸内に樋殿はあったと思われますが、誰もが使えたわけではなく、とりわけ女童のような軽輩は、邸外の空き地で用を足したのでしょう。 庶民の家には樋殿の設備はなく、空き地があればどこでも用便をしたようです。ここで想起されるのは、暗闇のなか、小路の端に寄ったら「屎のいと多かる上にかがまり居ぬ」つまり、糞が沢山してある上に坐ってしまったという『落窪物語』の話です。 さらに『餓鬼草紙』(十二世紀後半の成立)の「食糞(しょくふん)餓鬼」に見られる描写が思い起こされます。 平安京のとある街角、崩れた築地塀や網代壁に沿った道端で、老若男女が小便や大便をしています。素裸になっている子供の姿もありますが、大人は尻を捲(まく)りあげて用便をしています。立ったままで尻を出している老人もいます。 みな一様に高足駄を履いていますが、これは足元や着物の裾などが汚れるのを避けるためです。よく見ると、排便中の子供が右手に木片を持っているのがわかります。それは終わった後に拭き取るための籌木(ちゅうぎ)、つまり糞ベラです。あちこちに便や使用済みの籌木が散乱し、中に紙らしきものも見えます。 庶民は屋内に便所を持たなかったようで、このようなところで用を足していたのです。そうであるならば、この草紙に描かれた場所は共同便所であり、高足駄は共同使用と考えられます。 臭い話はこのあたりでお終いにしましょう。 【朧谷寿(おぼろやひさし)】 歴史学者。昭和14年(1939)、新潟県生まれ。同志社大学文学部文化学科文化史学 専攻卒業。平安博物館助教授、同志社女子大学教授を経て、現在は、同志社女子大学名誉教授、 公益財団法人古代学協会理事長、社団法人紫式部顕彰会副会長。著書に『藤原氏千年』 『藤原彰子 天下第一の母』『平安京の四〇〇年 王朝社会の光と陰』などがある。
朧谷寿(歴史学者)